鷹嶺 昊の今日の三枚下ろし。

今日のまな板の上、「ヤンデレと愛」

「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」と言うものをネタ的に買って聴いてみました。
理由ですか? ええ。広橋君と聞いて。はい。
簡潔な感想をひと言で言えば、「これは・・・シュールだ」


65d86375.jpg▼愛情と殺意は全くの別物である

確かに、このCDを全て聴いた瞬間は、強烈なインパクトがあった。世間・サブカル界で提唱されるヤンデレとは、こう言う傾向なのかと思ったのは確かだ。
ただ、鷹岑は意外と冷静に受け止められた。このCDに描かれる「ヤンデレの美少女」は、日本古来の猟奇・サスペンスに比較すればそれほど強烈というわけではない。
アキバ系の人たちが、時事・政治的にどれくらいの興味があるのかはわからないが、僕のように、くだらないバラエティ番組やドラマではなく、毎日のように時事ネタを扱うニュース・新聞を見ている特異な人間からすれば、このCDに収録されている美少女3人の考え方や動機を考えれば、現実の凶悪事件等々に較べれば実に瑣末なものである。
確かに、彼女らの行動一つ一つは残忍凄惨なものなのかも知れないが、その本質は結局は、主人公や第三者に問わず、「殺意」なのである。
愛がゆえに狂気に走った・・・」と、フレーズをよく聞くが、僕から言わせれば、それは単なる詭弁に過ぎないと考えている。

愛情と殺意、もしくは傷害に至る感情は、全く別のものである」と思う。
単純に考えればわかることだ。人を殺すことはもとより、傷をつけることは、それが愛であるとは思えない。怨恨から昇華した殺意。そこに愛情と呼べる感情があるとは僕は到底思えない。

「ヤンデレ」という定義は、怨恨や殺意を、都合の良い解釈の歪曲で愛情がゆえにと結びつけた、妄言詭弁の類ではないかと思っている。
ゆえに、僕は別にヤンデレを否定しているわけではなく、むしろツンデレはあり得ないが、ヤンデレは現実世界に極めて近い定義であると考えているのだ。
アキバ系の定義からしたヤンデレは、「美少女」である。しかし、そうした定義を除けば、“ヤンデレ”は世にごまんと予備軍も含めているだろう。「ストーカー」と、名前は変わるのだが。
「ヤンデレ」は、美少女を主体とするがゆえに、コアなファン層もつくのだろうが、基本の部分を考えればただの凶悪ストーカー行為に過ぎないのだ。もし、こうしたヤンデレ美少女が、CDのように行動し、殺傷された主人公が、「愛がゆえにこう言うことになった」と思っているとするならば、バカにするつもりはないが、実におめでたいと思う。

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▼こう言うのが流行するほど、世間はメルトダウンしているのだろうか

神戸児童殺傷事件以来、凶悪事件が多発するようになり10余年。マスコミの報道形態も様変わりした。
あくまで憶測だが、つい最近、娘が父親を刺し殺す事件があった。
あれを考えてみよう。「普段から勉強しろと言われ不満があった」と、娘は供述しているという。しかし、実態は共に食事を作ったりして非常に仲の良かった父娘だったとされる。
マスコミの報道はともかく、鷹岑はこの事件を見て考えた。「娘は、父娘以上の感情があったのではないか。父親が一向にその気がないので、思いあまって殺した」つまりヤンデレである。
勿論、全く根拠のない、想像に過ぎない、くだらない憶測である。
ただ、そう言う憶測も容易に考えてしまうほど、日本社会はメルトダウン(溶解)している。民主党の小沢一郎代表が十数年も前から危惧していた日本社会が現実となっている。このままでは行き着くところまで行く。
社会崩壊の一端・元凶とまでは言わないが、こうした、ヤンデレの設定が流行しているという現状が、日本社会を象徴することなのかなあと思った訳だ。

勿論、落合祐理香君、広橋涼君、河原木志穂君の演技、シナリオ。それぞれ個々は絶賛する。人気があるのもわかる。そこは、鷹嶺流の堅い話と言うことで、理解しておきますように。

 

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