依存が本質の恋愛関係は固い意志も目減りする一方

第108話イメージソング うれしくって抱きあうよ/YUKI

大沼理沙、泉司の本質論に絶句し自棄を罷む

内海聖志が池谷晶との同伴を目撃した大沼理沙が、自棄に奔って怪しいキャッチセールス紛いの男の勧誘に乗せられて行く課程は正直な話、同情の余地はない。
大沼理沙の場合は、やはり内海聖志を好きだという確固たる根拠を、自分自身の心に示せないでいることによる、自己不安が前のめりとなって聖志に依存してし まっていることが問題なのである。一歩間違えれば確実にヤンデレと化す事態に他ならない。

泉司が自棄に奔った理沙をして批判したが、鷹岑は少し泉のような冷徹な現実路線と言うよりも、この愚かな少女を擁護する方向で語ろう。
理沙は魅力に欠落している訳ではないのだが、主人公に思いを寄せるという意味において、彼女自身が聖志に対する想いを確信的なものとして受け止めていない という、自信のなさがどうも払拭出来ていないように見える。
言葉では聖志を想い、実行動に移すことには大胆さが見えるのだが、自分自身、聖志を好きだということへの裏付けが出来ていないというところに、今一歩踏み 出せない脆弱さがあるのだと言える。裏付けが出来れば、泉の本質論もまた別の意義であり、理沙が窮苦してただ嗚咽する事にはならない訳である。
大沼理沙の暴走◀大沼理沙の暴走

思い込みの激しさが傷害行為に及ぶいわゆるヤンデレに化さないところは少年誌連載における制動であると思われる。
一般的に大沼理沙のようなキャラクタを描いた場合は、傷害行動に奔るのが常道で、自棄となって売春行為に行くと言うことは少なからず彼女なりの良心が働い ていると言うことなのだろう。
傍目からは勿論、多分理沙自身も聖志に惹かれている大本の意義を理解していない。だから強くでられないのだ。

内海聖志と黒川雪の恋愛交叉、認識のズレ

内海聖志が池谷晶と交際関係を結んだこと自体は良いのだが、問題は互いの信頼関係と言うものが、聖志・晶・雪の三人それぞれに些か不足していることが確認 出来ることである。
これは高校生以下の恋愛が何故上手く行かないのかというジンクスにも関わってくる話なのだが、結局は好きだ嫌いだという表面上の感情によってその場に左右 されがちな若い人たちは、なかなか見えにくいことの本質を突き詰めて、自分にとって何が一番大事か、誰が一番大切かと言うことを、じっくりゆっくりと考え ようとはしないからである。
内海聖志は、優しいことが人を好きになるというタイプであるが、これは本質論としての誠実さと言う訳ではない。また、雪も結局“透”の幻影を周回しなが ら、聖志への想いを義務のような感覚で捉えており、本質的に聖志と正面から向き合っている訳ではない。ここは大沼理沙と類似はしているが、理沙と違うの は、雪自身は聖志を“好き”という根拠自体はある。そこはさすがにメインヒロインの面目躍如、と言って良いだろう。
聖志は向かうべき誠実さを、雪の心ない言葉ひとつで喪失し、行き着く先の見えない感情の吹き溜りとして晶に縋るという、不可避な結果を生み出すことになった訳である。
雪は依存心はそれほどあるという訳ではなく、基本束縛を嫌うため、聖志の誠実なき優しさが、純粋な束縛と受け止められているところが問題なのだと考える。晶は不安心が聖志への引力となっているだけに過ぎず、本気の恋愛感情であるとは到底言えない。
GEの本質は、聖志と雪のそうした根本的な恋愛観の認識をどう克服して行くのかにあると考えて良い。その恋愛観の認識によって、互いに誰が一番似合うのか。その選択をするプロセスなのかも知れない。
おかしいよ晶との交際に疑義▶

他人の恋路にちょっかいをかける奴は……とはいうものの、滝口瑛里が懸念している事は一定の的は射ている。しかし、瑛里自身も、やはり聖志と雪の恋愛に関する認識のギャップがあると言うことを理解しているとまでは言えない。
2011/12/10 記述