ヒロインの心理描写不要論に必要なこと

主人公一点で物語を保つは至難の業

OAD第1弾の発売を直前に、週刊少年マガジン第15号は表紙を君のいる町で飾り、本編2話に涼風編という、合計3話の瀬尾氏特集が色濃く滲み出た。
本編の考察に入る前に、300ページ(吉河美希氏の山田くんと七人の魔女の次頁)に掲載されている、漫画家への花道において、「ラブコメの極意」としてマガジン系列で連載を手掛けている諸作家のコメントがある。
「ラブコメ漫画を制作するに当たって大切にしているこだわり」、「魅力的なヒロインを作るに当たって意識していること」、「好きなまたは影響を受けたラブコメ作品とその理由」という三つの設問に答える形を取っている。
プロのクリエイターであり、それぞれのこだわりや考え方があるのは当然なので鷹岑は諸作家の考え方について否定はしないが、さて瀬尾氏の場合は果たしてどうであろうか。

一番目の問いで、「大事なシーンでは複数の感情を表情に込めるようにしている、嬉しいけど不安、笑っているけど泣きそうなどの場面、読後の印象が強い
ここは絵をもって見るという、漫画の本質を当てているので瀬尾氏の考えは正しいと思います。

ヒロイン心理描写不要論の賛否

さて、二番目の設問において、瀬尾氏は「主人公以外の人間。特にヒロインの心理描写は一切いらないと思っている。登場する女の子の気持ちが全て分かっている恋愛漫画ほどつまらないものはありませんし、“そう見える”のと“そう”では全く魅力が違ってきます」と解答しています。

ある意味、長く「君のいる町」や桐島青大、枝葉柚希らを叩き続けている批判派・アンチ君町層に対する強いメッセージでもある訳で、これが瀬尾流のラブコメの真髄なのであると思いますが、さて、このメッセージを解釈した読者層はどう思われるだろうか。

鷹岑はヒロインやその他登場キャラクタの心理描写は要らないという瀬尾氏の基本理念はそれはそれで良いとは思う、それならば心理描写が不要な分を、漫画の本質である画と洗練されたキャラクタをもって読者層に伝える努力をしなければならなくなる。
つまり、少数精鋭でキャラクタを大事にし、主人公以外のキャラクタの心裡を読者に丁寧に伝えてゆくという努力は絶対に欠かせない。
ラブコメでヒロインの心理描写が描かれないという、瀬尾氏がリスペクトしているとされるまつもと泉氏の「気まぐれ☆オレンジロード」も、そういう意味では 少数精鋭のキャラクタを丁寧に扱うという意味でストーリーを上手く展開してきた。そういう意味では鷹岑からすれば「気まぐれ…」程の丁寧さというものが、 君町には欠けていると思うのである。

瀬尾氏は「女の子の気持ち全て」と言っている訳であるが、1から10まで全てを表現することを批判層とて望んではいないだろうし、そのような作品は瀬尾氏が言うように全くつまらないものになります。
しかし、恋愛を主体とするラブコメと銘打っている以上、ヒロインの心理を100%表現することは望まないにしても、最低でも2,3割程度は描写がなければ ラブコメ自体の基本理念に疑義が生じる。ヒロイン心理描写は一切不要という強硬な姿勢は、主人公を通じた一方的な作者側の独善主義と捉えかねない要因でも ある訳だが、「涼風」までの歴代作品の主体である体育会系の作風を基幹とする瀬尾氏らしい主義主張と言えばそうであろう。

「そう見える」のと「そう」によって魅力が違うと言うのも当然なのだが、「そう見える」という所にも一定の配慮がなければ、必ずしも魅力の高いものであるとは言えないだろう。

ただ、瀬尾氏のこうした考え方によって制作されている君のいる町という作品が、10年後においてなお強い印象を与え続けている作品で有るかどうかは甚だ疑問だ。