雪・晶、其々の心底に連綿と流れる未練、顕在化す

遠離せし偽りの蜜月と、偽りの白紙の摂理


晶への未練を切々と語る健人に、晶は罪悪感があるなら、全部忘れて良いと語り去る。一方、“白紙”に戻った聖志と雪だが、ぎこちない空気は否めなかった。 学校見学を約束していた雨宮莉子と会った聖志。校庭で雪と邂逅した莉子。突然走って逃げ出す雪に愕然とする聖志。理由を聞く聖志に、莉子は“透流”が自分 の兄であることを告げる。

沢田健人の激白に、終に心裡を隠す晶

池谷晶が沢田健人との対峙に臨んだが、不完全燃焼に終わった。この場で晶がなお自分の本心を秘匿し続けると言うことは、後に聖志との関係においても看過できない禍根を遺すことになるだろう。お前じゃなきゃダメだ

健人はよしんば聖志からの略奪も辞さない覚悟でプライドを捨て、晶への正直な想いを吐露した。事故を起こしたのは晶への想いが昂じた、と言うわけでは確かに無いのではあるが、晶への想いを激白するための舞台設定としては申し分が無い、お誂え向きではある。
一方で、晶はどうだったろうか。
彼女は健人への未練を“聖志からの優しさ”で被覆してきたわけだが、健人の暴風のような想いによって脆くも真意が露呈してしまった感じが否めない。
結局、晶は健人の真意を「罪悪感」という表現に押し込めてしまい逃避してしまった。その罪悪感という言葉は、健人を心裡に想いながら聖志との既成事実を作ってしまった自分自身への後悔にも似た情を表現しているとも言えるのである。

全く割り切れていない、偽りの白紙

一方で、黒川雪の方も自分の心にある残念にそれぞれ決着をつけずに先送りをしてきたツケが回ってきているという印象がある。
聖志との関係を白紙撤回させるなどと言うのは端からナンセンスな話であり、また“透流”の存在そのものも鷹岑が指摘してきたように、終始一貫して雪の心底に未解決のまま連綿と流れ続けていると言える。
偽りの白紙
恋愛にしろ政治的な関係にしろ何でもそうなのだが、人間の行動というのは基本的な軸があってなすものであり、その基軸が善し悪しを問わず自分の考え方の源となるものだ。
黒川雪にしろ池谷晶にしろ、当初は“透流”、“健人”という強い影響を与えたいわば「幻影」が依然として深層心理を支配し続けているのだから、どのように言葉を尽くしたとしてもそうした心の現実から目を逸らし続けている限りは、何の解決にもならないのである。
そう言う意味からして、雨宮莉子が透流の兄という事実が衝撃的かどうかと言う問題では無く、雪にしろ晶にしろ、今の自分がどう言う経緯で、どう言う強い影響を受けてきてあるのかを真剣に考えなければならない。透流が莉子の兄妹だからどうかというのは関係が無いのである。
言葉は千言が全て虚飾となり、心は隠してもいつかは白日の下になる。他人に嘘や虚勢は張れても、自分に嘘をつくことは出来ないものである。
利害を超えて自らを清算すると言うことは、言葉では言ってもなかなか出来ないものであることは確かなのであるが。
いずれにしろ、無意識というか、自然の摂理とでも言うのか。聖志と晶の蜜月関係は次第に遠離作用が働き始め、詰まるところ本来の場所に帰趨する指向性が顕著になりつつある気はする。

第136話 名言蒐懷

死んだ方がよかったか‥?(沢田健人)

仮に健人が事故死すれば、晶と聖志は即日離別しただろう。死亡退場は本来、物語を大きく曲折させる契機にするものである。

お前じゃなきゃダメなんだ!!(沢田健人)

「女々しき未練」、「男としてのプライドが無い」という非難も受けそうな健人の姿だが、本来、人間というのは心の奥底で思っていることをさらけ出す時と言 うのは、それくらい格好の悪いものであろう。格好をつけたり、プライドを捨てられない人間は、常に本音を言えないものなのである。

あたしも忘れる‥(池谷晶)

晶が言った罪悪感というのは、自分自身への行動にも当て嵌まる。忘れていいと言う言葉は日本人特有の「忘れることが出来ない」ゆえに「忘れようとする」というど壺の表現。晶が最後に言ったこの言葉が、健人への訣別だと感じた読者は殆どいないでしょう。

日が暮れちゃう(黒川雪)

暗鬱とした雪の口調が容易に想像できる。彼女の表情から見ても一目瞭然。聖志との関係を白紙撤回にしようと言いながら、益々逆効果の様相である。

あたしの兄よ(雨宮莉子)

考察でも述べたが、「透流」が莉子の兄妹だから…という設定そのものはどうでもいい話であり、根本的な問題は、雪の心の底流に今も滔々と流れている“透流”そのものであると言うことは鷹岑が一貫して指摘し続けていることである。