小林尽氏の「School Rumble」がメジャー化するのを見届けてから、鷹岑はしばらく週刊少年マガジンの購読を止めていた時期があったので、過去の状況はよく判らないが、「魔法先生ネギま!」、「ハッピープロジェクト」、「エデンの檻」などの終り方が酷い。という声がある。
漫画家個々の構成能力の劣化もさることながら、編集部のやり方を非難する声も多々あるのは承知で、鷹岑はこのブログでも常に言っていることを再提起しておこうと思う。

「駄作」とされている漫画、漫画史に汚名を残す「烙印」。それでも終われない、或いは長く続いた連載でも、終りを良くしなかった、良くならなかった作品。多々ある。

理由は何なんだろうか。

果たして、漫画家のネームスキルが悪いのか、担当編集の技術不足なのか。それだけが悪いのか。という話になる。
鷹岑は、漫画そのものの構成・作画・編集に携わる部分という意味では漫画家や担当編集を厳しく批判することもあるが、全体を考えた場合は漫画家そのものや担当編集のみを攻難するのは、やはり限界があると考えている。

何が、名作を駄作に貶め、駄作を名作に押し上げるのか。

鷹岑はやはりそうした漫画の命運を左右する大原理・大原則は、読者一人一人であるという考えだ。
漫画のクオリティと一言では言うが、クオリティというのは時代背景を投影する。また価値観というのも今昔必ずしも同じという訳ではない。
だが、ラブコメにしろ、アクションもの、スポーツものにしろ、それぞれのジャンルが目指す原理原則というのは不変なものであると思うので、ストーリーとして時代背景は投影したとしても、基本のオリエンテーションは皆同じだと考えている。

と言うことは、求められるのは読者側の姿勢だ。

読者個々が優れた洞察力、本質を見抜く眼力、 先見性を持ち合わせてさえいれば、作品も自ずと良い作品になってゆく。読者の質が下がってゆけば、作品も自ずと下がってゆく。そういうことではないだろうか。

君のいる町の作者・瀬尾公治氏は、連載を終えられない理由を尋ねられてこう答えた。

「読者が続けてくれと言うのならば続けるし、辞めろ言う声が多いならば辞める」

彼の言葉は、自身のネームスキルや、編集サイドの技術力を指摘している訳ではない。決めるのは読者である。

ある意味、瀬尾氏の言葉は間違ってはいない。

君のいる町が、第一話から示してきた本来の「ラブコメ」としての役割を終えて久しいはずなのに未だに続いている理由は何なのかという根本にあるのは、瀬尾氏の言葉の通りに、読者の質に比例するのだと考える。

君のいる町を未だに支持し続けられている読者が、この作品のどこを支持しているのか、洞察力・眼力・先見性などを含めた視野の広さを持っているかどうかは解らないが、ただ、連載を終えたGE~グッドエンディング~の流石景氏のように、終決を決めて賛否分かれる中で終えたという潔さは、読者の声に左右されず、紛いなりにも漫画家としての矜恃を見たと言えるが、瀬尾氏はそうした軸足が見えず、ただ頑然とした姿勢に拘泥しているように思えてならない。
瀬尾が言う読者の声は、穿った見方をすれば、読者の質の低下を皮肉ったものだとも言える。

残念だが、市場原理主義が浸透してほぼ10年。漫画界も、その質よりも売れることばかりを念頭に置いた姿勢が主流となっている気がする。
読者側の質の低下が、良作を萎えさせ、駄作が跳梁する今日の漫画界を構成させていると考えておかしくはない。
個々の読者は、その作品やキャラクタを批判する前に、自分はその作品をどういう風に捉えているのか、一度振り返り、自分として、その作品の原点をどう捉えているかを改めて考えてみることが大事であると思う。