深く澄み切った、清冽無穢なる純真さの藻掻き

仲村佐和仲村  佐和

アニメ版CV:伊瀬 茉莉也 / 実写版配役:佐々木 南


クソムシの海、クズネズミ…酷虐の思念の裏に茫々たる清冽無穢な純粋

鬼才・押見修造氏の問題作「惡の華」のヒロインとして絶大な存在感を放っている美少女。アニメ化をされた時に、その作画の落差の大きさに侃諤たる論争がネット上を賑わしたとされています。
「クソムシが」という吹き出しの表紙が極めて異色だった単行本第1集。漫画だからヒロインが美少女である事は必然事項である事は紛れもない。
鷹岑も押見氏のパストグラフィーを調べていれば、「ユタイノヴァ」「デビルエクスタシー」などの隠れた名作なども紐解く暇もあっただろう。
両作をも読んだことを踏まえて、惡の華のヒロイン・仲村佐和は一体何なのか、鷹岑独自の視点で検証してみようと思う。

垣間見る、徳永英明「Nostalgia」への世界の瞻望

仲村佐和(原作第1集) 単行本第1集の巻末において、押見氏が「そこには、真っ赤な夕焼けが広がっていました。」と述懐している“惡の華”誕生のプロンプトがあるのですが、鷹岑 が仲村佐和を中心とした、主人公・春日高男、ヒロイン格・佐伯菜々子の激しく蠢く心理変遷は、単に背徳感による禁忌冒涜の陶酔、人間の欲望という表面的な 感情論ではなく、正に押見氏が見た、「真っ赤な夕焼け」そのものの、束縛や社会を生きてゆくためのテンプレートというものに嵌まらずにいた、“ありのま ま”の世界。すなわち、それは誰しもがかつては見てきたものの、忘れて去られていった、ノスタルジアの光景なのであります。
『僕が言うノスタルジアというのは、過去の記録を見て懐かしいなあと言ったようなものじゃなくて、もっと本質的な、今の自分ではない、生まれながらにして感じていたはずの本当の自分』
1994年にツアーの中での、テレビインタビューに答えていた徳永英明の言うNostalgiaの世界は、単なる郷愁じゃなく、穢れなき心に見た風景を提起していた。

仲村佐和は、主人公・春日高男が佐伯菜々子の体操服を秘匿したことを切っ掛けとして春日を自らの世界に引き込もうとしているというのだが、鷹岑もなに仲村佐和(佐々木南)なに 相当へそ曲がりな見方をしているものであって、仲村佐和が精神のねじ曲がった存在どころか、ずっと彼女のそうした一連の言動に対する内面の深奥に秘めた深 く、とても澄んだ穢れない心の本質を見た気がするのです。
つまり、彼女は春日の行動を密告したり、吹聴するというような些末な事は端から思っておらず、自らの世界をシェアしうる存在、春日との共生を本気の想いで見通していたからこそ、春日の「真実」に拘った。
彼女が言う「変態」や「クソムシ」は、そうした社会のテンプレートに嵌まり、また嵌められていった存在を言う。だから、クソムシの海であり、また自らも「狂気」になることで、自らを失くす事への不安を補完してきたように思える。

仲村佐和(アニメ)「正義」ではなく、「存在」を渇望した少女

仲村佐和を一通り見てきて、また押見氏のモノローグを鑑みれば、彼女の存在そのものは、引き合いに出した徳永英明の「JUSTICE」の境地というよりもやはり、変わりゆく自分への藻掻き、不安への反発のようなものであると鷹岑は考えている。
80年代から90年代に亘って精神的なカリスマとして今なお隠然たる存在感を放つ尾崎豊が提唱したコンセプト「卒業」「15の夜」に代表される、社会の ルールを強いた大人への反発と言ったテーマではない、自然に進み、嵌まり、テンプレート化してゆく、ごく当たり前な通過儀礼に対する自己矛盾という意味に おいて、仲村佐和は、ある意味尾崎よりも屈折していると言える。
尾崎はよく「真実・存在」という言葉を駆使し、楽曲でもそれをよく示しているのだが、仲村佐和は尾崎のような社会体制への抵抗心の原動力となる純白な 「愛」を追求すると言った社会的な訴求力を持っているわけではなく、比較するならば社会に対する自己喪失への苛立ちであり、社会やそれに追従する世間をク ソムシと言う名の「正義」であると認識しているのではないだろうかと考える。
哲学的な思想に偏ると言うわけではないのだが、彼女はそうした「正義」の中で生きてゆく事への単純な反発ではなく、単にそうした自分自身に対する矛盾に藻掻いた先にある存在を求めてきたと言える。
春日高男に山の向こうを指差し、連れて行けと言ったのも春日高男ならば、そうした自己矛盾を共有し、社会的正義の中にある自己存在を確かめ合うという事が 出来たと感じていたのである。それは、春日がバイブルとしている「惡の華」という、一種のテンプレートのひとつではなく、自らでいられることの核心的存在 である。仲村佐和(アニメ)

春日を突き放した、向こう側への同床異夢

アニメ版では、回を重ねるごとに見栄えが良くなって行く仲村佐和。春日と共に未知なる『向こう側』を求めるその期待感と高揚感が彼女の表情を磨かせてゆく。
社会のルールに悉く反してゆく行動の中で、人が醜さではなく、却って輝きをもって映えると言う事は、そうした行動の本質が、正に穢れのない心によってなすことにあるからである。仲村佐和(佐々木南)と春日高男(植田慎一郎)
劇中の名場面である「教室に咲いた惡の華」ならず、尾崎豊にある「後者の窓ガラスを壊して回った」というフレーズに、切れるような清冽とした純真さを感じるのも、その本質に他者を不幸に貶めるような、物理的な『悪』が無いからである。
しかし、仲村佐和が目指した『向こう側』を、春日高男は同床異夢であったと言える。
佐和は社会的正義の中での自己という存在を求めていたとするならば、春日高男はその社会的正義の中で藻掻く自己矛盾のシェアに止まるものであったのである。
ボードレール「惡の華」に看過された頽廃主義は、佐和が求めていた社会的正義からの昇華による自己存在の主張には及ばなかった。春日高男が本来は同じ立ち 位置であったはずの佐伯菜々子ではなく、仲村佐和に傾倒してゆく過程は、単純な背徳からの逃避ではない、惡の華の世界を別とした仲村佐和の世界に対する純 粋な憧憬を示していたと言えるのである。
仲村佐和(クライマックス)
クライマックスにおいて、彼女が春日を突き放したのは理解に値する。つまり、佐和自身が型枠から外れきれない春日への哀憐の情と言えば語弊があるが、春日 に対する「正義」が残っていたのであろう。仲村佐和の唯一にして最大の「情」であった。自己存在の追求と、社会正義の枠。春日がそう言う無間地獄に堕ちる ことを、ギリギリのところで佐和は留めたのである。

常盤文との違い

第二部のヒロインである常盤文について、佐伯菜々子は春日に対して「仲村の代わり」と批判しているのだが、世界の共有という視点においては、常盤は仲村とは根本的に違う。
常磐文の人物像についてはまた別の話とするのだが、彼女は尾崎豊に謳う「forget-me-not」に代表されるような、仮想世界の上に繕う自分の中に ある真実の姿を見つけ出してくれた春日との価値観を同じくして惹かれ合うと言う事に較べると、仲村佐和はそう言う意味においてのいわゆる恋愛的な眼差しを 春日に向けたことは殆ど無かった、と言うことの方が正しいかも知れない。仲村佐和(佐々木南)
仮に恋愛的な想いが芽生えたとするのならば、そうした自らの想いの相違で「向こう側」という彼女の中の存在をシェアできる存在ではないと知った仲村佐和が、春日高男を犠牲にするのは苦しいことである、と思ったとしても不思議ではないのである。
そこが、尾崎豊と言うよりも、徳永英明の「JUSTICE」から「Nostalgia」に到るまでの清冽なほどの穢れなさを彼女の中に見て取れるのだ。汚 い言葉や狂気じみた行動の奥底にある、どこまでも澄み切った純粋さが、世俗の「正義や常識」に濁ってゆく事への反発・藻掻き。
それはこじらせた中二病と端的な言葉で嘲笑するだけでは浅はかな大事な何かを、読者に問いかけ続けてきたヒロインであることは間違いがないのである。