春日が雲間に見た一条の光、尾崎の恋愛観に尤も近い存在
常磐 文常磐 文

アニメ版の声優は現在の処未定(第二期に期待!)/実写版の配役も同左

アトモスフィア・イメージ:優しい陽射しforget-me-not(尾 崎豊)

女 神の存在を超えた無心の儕、世界を共有し“真実”への伴侶とす


春日が垣間見た真実への「縁」、差し込む“優しい陽射し”

●春日高男との出逢い

常磐文のキャラクタデザインを初見したとき、芥川賞作家の川上未映子氏に似ていると思ったのは果たして鷹岑だけであろうか。押見氏が惡の華・第二部のヒロ インである常磐文を想定する時にイメージしたかどうかは、一読者たる鷹岑の知るところでは無い訳だが(笑)
閑話休題
激しい物議を醸した問題作『惡の華』第二部のメインヒロインとして、単行本第7集・第34回から登場する常磐文は、第一部で繰り広げられた愛憎や既成概念 への抵抗に破れ、仲村佐和や佐伯奈々子との過去を癒えぬ傷として引き摺る主人公・春日高男が、高校生活で友人との交友の場で同席をするという形として扱わ れ、教室で暴言暴動を発した仲村佐和や、初期設定での想いを寄せていた佐伯奈々子のように、初見当初から強い印象を受けると言ったようなファーストコンタ クトではなかった訳だが、逆にそれが常磐文が、仲村や佐伯とは明確に存在意義を異にし、主人公・春日高男にとって確実にその物語の中心的な役割を熟す存在 に成し得るに最善最良の演出効果であったと言える。

春日高男の「Nostalgia」を追蹤させた、惡の華

鷹岑はこの第二部における「惡の華」は、堕落へのシンボリックと言うよりも、「昇華」への指標という意味合いにおいて重要なキーとなっているような気がす る訳で、常磐文は、そうした『善』なる「惡の華」のミディアムな存在ではないだろうかと考えているのだ。
惡の華押見氏が単行本末のモノローグで「見上げれば真っ赤な夕陽が広がっていた」と言っていたのと重なる、徳永英明の名 曲「Nostalgia」のフレーズに「子供の頃に見た夕陽が今も、心の中で輝いている」というように、『惡の華』というのは、まさに春日高男や常磐文、 そして仲村佐和や佐伯奈々子、そしてつまるところは私、鷹岑昊や、今この記事を読んでいる画面の前の『諸卿』それぞれの心の奥底にある「ノスタルジア」な のである。

ネット用語で一括りにされる「中二病」を初めとする社会通念への順応や反発、生まれて初めて自分自身の心の中の決断で向かう引き返すことの出来ない岐路。 それまで歩んできた『当たり前』の日常の中にあって、自分自身の“自我”で見出した道標、「縁(よすが)」がある。心に響いた瞬間をノスタルジアというの ならば、常磐文はきっと文学であり、春日高男もボードレールによる文学であった。
仲村佐和や佐伯奈々子は自らの「存在」や「価値」、「正義」と社会通念との懸隔に反発や苦悩を重ねてきたが、常磐文はすでに自分の「存在」、すなわちノス タルジアの在処を解している。
そして文学に傾倒している自分が、周囲との交友関係に対して良い影響がないと言うことを理解している。ある意味、そうした社会との均衡を彼女なりに量ろう としている打算的な部分と、本質的であるありのままの自分を曝け出すことが出来ないという漠然たる孤独感が、愚図めき陰湿さを沸々とさせている“前科者” の春日高男にとって、また彼に感情移入する読者の心を捉え、惹き込んで止まない彼女の最大の魅力なのである。
常磐と見る夕陽◀常磐と共に見上げる夕陽

押見氏も単行本のモノローグで印象を強くしていたとする「真っ赤な夕焼け」が描かれている名場面。自分が本当に目指していることとの懸隔に激しく苛んでい た時期の徳永英明が、隠された名曲「Nostalgia」の中で「子供の頃に見た夕陽の中で、僕らはいつも輝いていた」というフレーズが、実に印象が強 い。ノスタルジックな映画「三丁目の夕日」も然りである。神曲とされる武田鉄矢の曲「少年期」も、やはり幼少の頃に見た「夕陽」がシンヴォリックな情景として描かれているように、夕陽・夕焼けというのは、日本人の心の故郷なのかも知れない。
惡の華=ワスレナグサ(勿忘草)説

物語の基幹である“惡の華”が、頽廃から創造・再建のシンボリックであるというのならば、「Nostalgia」の追蹤を経て、常磐文が尾崎豊の追求した“純粋なる恋愛”のひとつ、「ワスレナグサ」を経るという存在であると言うことを想定すると、また面白い。

同じく尾崎豊が提唱した「優しい陽射し」の楽曲を繙けば、常磐文が藤原晃司と交際していた日々を投影できる。鷹岑が、惡の華の中において徳永英明の世界と尾崎豊の世界がシェアされていると考察で述べた理由として、これがあるのだ。
主人公は確かに春日高男だが、実質的には仲村・佐伯、そして常磐が仕切る世界観だ。理想と現実の懸隔に藻掻き、あがき続けてきた徳永や尾崎の世界観に共鳴しながらも、藤原晃司い ずれもネガティブな思考から(社会通念として)ポジティブな思考に脱皮するという、ある種のイニシエーションとして、優しい陽射しから「forget- me-not」に至る尾崎の極めて清冽透明な恋愛観を常磐文という存在が抜群に引立てていると言えるのもあながち間違いではないだろう。

押見氏が「惡の華」をどう言ったコンセプトでこうした深遠なドラマを展開できるかは、本人でも関係者でもないので憶測の域を出ないのだが、鷹岑としては第 二部のヒロインとして常磐文というキャラクタの存在を見た時に、紛れもなくそうした「心の故郷」がその本質にあると言うことを見たのである。

●藤原晃司の悲劇

常磐文の恋人として登場した藤原晃司だが、彼には一切の非はない。(本編上)彼が特段、常磐文に対して酷いことをしたことはないし、その恋人が、自分が一 度も踏み入れたことがない常磐文の自室に、春日高男が立ち入った事に対する疑念と嫉妬は、決して不自然なことではないし、寧ろ晃司への同情の念が強いとも 言えるだろう。
ただ、常磐文と藤原晃司の馴初めが描かれていない以上、何とも言い難いのだが、二人が交際した経緯というのは、やはり交友関係の流れの一端。という事なのだろうか。簡単に言うと、「勢い任せ」「場の雰囲気で何となくつき合うことになった」
空っぽ
常磐文は自らを飾るために、周囲に合わせてきたことが見て取れるが、春日高男はそこに関しては不慣れな部分が顕著である。確かに、常磐文は眉目秀麗でスタ イルも良く、今どきの女子高生然としていて、春日高男は根暗なキモヲタ然である。周囲と同調する経緯も、較べればその差異は歴然である訳だが、二人の見て いる先が結果として同じであったと言う事は、ある意味晃司にとって最大の不運であろう。
物語の約束とはいえ、春日高男が古本屋で「惡の華」を立ち読みしている常磐文を目撃してさえいなければ、藤原晃司の一連の悲劇はなかったわけだが、それを踏まえて考えれば、確かに晃司は常磐に対して何を求めていたのか、と言うことを抜本的に見る必要がある。

まあ、大方普通の男達のように交際しているのだから、常磐のように美人で脚も長いスタイルの抜群な美少女とエッチが出来ることにのみ思念が行っているのだ ろう。「今風」の女子高生を気取る少女の本質を見抜く男など、おそらくそうはいないだろう。それほど、春日高男という主人公は異質なのである。
故に、藤原晃司は春日高男との邂逅こそが最大の悲劇であった。
彼を弁護するわけではないのだが、もっと早く『文学が好き』だという常磐文の本質を知り、造詣を深める努力があればと痛悔の念に堪えない。藤原晃司の悲劇
そして、彼は最後の最後まで、春日高男を『見下して』いたのである。それが、「略奪愛」となるのは自明の理だったと言って過言ではない。

彼は「一般論」で言うと普通の青年だ。陰で悪いことをしているわけでもなく、確かに表面的な意味で常磐文に尽くしていたのだろうが、その中で彼がこれまでの常磐文との時の中で致命的だったのが、言う迄も無い、春日への蔑視だったのだ。
勿論、常磐文と春日高男が価値観をシェアしうる存在であったと言う事を予見するとまでは求めずとも、寸分なりと春日高男という根暗で柔弱な少年と対等に接する気概があれば、常磐文の気持ちも違っていたことは間違いが無い。
表面で物事を判断する。常磐文の「空っぽなのよ、晃司は」は多少言い過ぎな面はあるが、的を射ていると言えるのである。
常磐文・名場面
書淫の世界を共有しうる伴侶

常磐文との出逢いが、「惡の華」を尾崎が提唱する「ワスレナグサ」であるという仮説を鷹岑は提唱し、「惡の華」が必ずしも頽廃忌諱に触れるものではないと 確信したものであるわけだが、春日高男の常磐文への渾身の告白(第45回)は、一般的に見れば随分と臭すぎて台詞じみている、と思うかも知れない。
だが、忘れてはならないのが、春日高男と常磐文は、書淫であるということだ。
「僕と生きてくれ。僕が君の幽霊を殺す、降りようこの線路から。…君が好きだ」
この台詞ひとつだけを見れば歯の浮くような、旧時代のメロドラマかと思われるだろうが、それが彼らの本質なのである。この台詞を初めて読んで、少しでも「可笑しい」と感じた読者は、この二人の本質を知らぬ者であったと言って過言ではない。
歯の浮くような、メロドラマ然とした小説じみた台詞。だが、その言葉こそ、いや、その言葉のみが常磐文の深奥をダイレクトに突き刺し、彼女を「着飾る」 幻影から救う端緒となった事は間違いが無く、また、その唯一の台詞を発せられるのが春日高男しかいなかった。第45回、晃司をして一息に常磐文の慰留を断 念させた哀咽の場面は、読者すらもその心裡に惹き込むほどの名場面であったと言えるだろう。

常磐文は、春日高男のことを好きであるのか。また春日も常盤を好きであるのか。
佐伯奈々子が指摘した「仲村の代役」という指摘は、件の通り鷹岑は違うと思っている。ただ、「小説」を媒体とした繋がりによって、それが「恋愛」であると 思い込んでいるようではダメだ。それが本物であると、互いが本当の意味で気がつく必要がある。それは今後の展開次第ではあるが。

さて、
徳永英明の「Nostalgia」の世界観から比較的ポジティブな尾崎豊「優しい陽射し」「forget-me-not」の世界を拓く「惡の華」だが、鷹岑が個人的に気に入っているキャラクタが、静かに登場している。常磐文の兄である。常磐文の兄
想像を広めれば幾らでも解釈が出来る、ヒロインの兄妹家族。初見は春日高男が常磐家に来た時に「文が連れてきた男は君が初めてだぞ」と戯けた所だが、不思議と鷹岑はこの兄にシンパシーを感じたのだ。何気ない台詞と表情なのに、面白いものである。
春日と常磐文が交際するようになってから、何度目かの来訪。新年のある日。文の兄は揶揄するには必ずしも笑えない冗談を言う。深読みをすれば、妹に対して特別な感情を懐いているかのような描写だ。
だが、この先どのような展開が待ち受けていようとも良い。人は還るべきところに還る、辿り着くべき所に辿り着く。

第二部で描かれる常磐文も、今後様々な苦悩を乗り越えて是非、春日高男との真実を、永遠に共有できる日が来ることを願う。

※連載中なので、憶測が多いことを御了解ください。