常磐きみと往く鄙びた町に棲みし佐和 静謐な 空、過ぎ去りし時間とき
辿り着いた彼女の消息、関東の東端に向こ う側は見えたのか
~千葉県銚子市外川町、関東地方最東端に見出した仲村佐和の存在と春日高男 の試練

第52話、惡の華の本編考察は長くなるからあまりしたくは無いのだが(笑)
前回に引き続いてやらせて頂きます。相変わらずの駄文ですが、よろしくお願い致します。

■春日は常磐と待ち合わせをし、電車で片道4時間近くも掛かる町・千葉県 銚子市外川へと仲村佐和の消息を追う。木下亜衣が涙乍らに書いたメモを見ながら、 常磐は思いを馳せる。古びた駅舎に降り立ち、時間が遡ったような静かで鄙びた海辺の町を二人はメモに記された「食堂」を探す。地元の人が言った食堂を見つ けた春日は、迫る再会の時に怖気付く。そして、注文した料理を運んできた少女。春日は意を決して「仲村」の名を呼ぶ。そして、ゆっくりと振り返った少女・ 仲村佐和は穏やかな微笑みを浮かべながら、「ひさしぶり」と答える。

惡の華・第52回アトモスフィア・イメージ 浅い夢/河合奈保子(来生たかお) 
総合評価★★★★★+10

風景を重んじる押見流、静閑な海辺の町を舞台にした過去との対比

常磐文来生たかおさんの名曲「浅い夢」が脳裏に流れるような素晴らしい本編の風景描写よろしく、それでも春日が求めた先に ある、仲村佐和との再会に対する緊迫感だ。
常磐は春日から受けたキスを信じてはいるものの、不安と初めて会うだろう「仲村佐和」という過去の存在に対する怯懦が交錯しているのではないだろうか。

「過去を見尋みとめて往く銚子路あずまじの、心閑かに因る鬼胎」

情景を楽しむという感じはあるまい。そんなことよりも、常磐が春日と仲村が経た過去を辿る、という事は非常に心の負担が大きいものだろう。
木下亜衣ですら背負えずに激しい痛悔の涙を流していたと言うのに、それに立ち向かおうというのだから常磐の春日に対する決意と覚悟の程が窺えるのだ。

木下亜衣その木下の記したメモが明らかになったのだが、得てして女の子の字とは思えぬほどに悪筆だ。だが、押見氏の演出の憎い部分でもある。
木下が普段からこのような文字を書いているわけではないだろう。学校生活や家庭生活で、一時なりとも佐伯奈々子や春日・仲村の存在を忘れている時は、彼女もまた普通の女子高生らしい字を書いている筈である。
だが、このメモを記した瞬間の木下の心裡状況というのが、この字体ひとつで伝わってくる。こう言う演出は実に素晴らしく、絶妙巧技であると言って過言ではあるまい。
木下亜衣のメモ
奇しくも木下亜衣によって再び導かれることになった春日高男の運命。この幽深なる惡の華の人物相関は一体、どういう感じに繋がっているのであろうか。
改めて鷹岑が言う人物考察などは押見流の足下にも言及を許さない程の光と闇を抱えているような気がしてならないのである。

メモをじっと見つめる常磐文~「会えればいいね」

「幽霊殺人事件(仮)」サスペンス小説を手掛けた常磐のことだから、きっとそのメモを記したであろう、木下亜衣に思いを致しているのではないだろうかと邪推する。
その文字に記された言葉ひとつひとつに馳せる、木下という少女の様々な想いが、常磐をして「会えればいいね」という言葉を紡がせたのではないだろうか。
会えればいいねそりゃあ、常磐からすれば嫌に決まっているだろう。恋人の黒歴史を告白されて今更乍らに罪過を犯したかつての等儕に会いたいというその心情を理解出来ないのが普通である。
「もう一度、見せて欲しい」と常盤が言った。メモを「あの紙」と言ったところに、密やかな仲村に対する敵愾心が読み取れる。
木下がどんな思いを懐きながら過ごしてきたのか、このような悪筆で憎んでも飽き足らぬ春日高男に、仲村の居場所を伝えたのか。鷹岑は思う。常磐の言葉には、それを通じて中学時代の「最大の犠牲者」であった木下亜衣の無念さが犇犇と伝わってくるような気がしてならないのだ。
「会えればいいね」が、果たして言葉通りなのであろうか。会ってどうするつもりだったというのか。

穿った見方だが、鷹岑はこの言葉に常磐の怨讐にも似た感情があるような気がする。
この素の表情で淡々としたひと言の心裡に、「そうだ、会えば良い。会って襤褸糞になって私を仲村の代わりにしたことを激しく後悔すれば良い」などという瞋恚が込められてはいやしまいかと。
まあ、常磐はそう言う娘じゃないって事を信じたい気持ちはあるんだが、なにせ押見流だ。その深遠なる心情描写は到底愚鈍な一読者たる鷹岑になぞ推量出来る余地は無い。

関東地方の東端、千葉県銚子市外川町~仲村の見出した向こう側とは?

千葉県銚子市外川町仲 村佐和が騒乱の涯に流れた場所。押見氏は千葉県銚子市外川町。関東地方の最東端にある、鄙びた港町を選んだ。NHK連続テレビ小説「澪つくし」のロケ地と もなったとされるその町は、惡の華のバックグラウンド・コンセプトでもあるノスタルジックな色彩が広がる、まるで時が止まったかのような静謐な港町という 印象である。
全く関係ないが、鷹岑の親戚はそこから少し離れた山武市という町に住んでいるのだが、そこですら聞けばわが東北の田舎と変わらぬ情緒ある風景が広がっているのだという。
小泉政権以降の大規模な規制緩和以降、全国至る所で同じような建物や風景が蔓延し、その土地の鄙びた原風景が悉く絶え果ててゆく中で、この外川町という場所はグーグルマップのストリートビューを辿るだけでも、そうした今にして貴重な鄙びた風景を見ることが出来る。

「浅い夢」の間奏が流れる中を本編と共にその風景を辿ってゆくのも一興。押見氏はそうした日本の「風景」を非常に重んじ、日本人の心、まさに幼い頃に見た夕日を彷彿とさせる、徳永英明の曲よろしくノスタルジアを強く揺さ振るアナムネーシスであると考えるのである。
東の涯、原風景。都会の瘴気から排除された末に辿り着いたそこに、仲村佐和が見出したもの、そこで生きてきた何か。どんなものなのだろうか。

「食堂水越」~仲村佐和が栖とし、春日と再会を果たす

食堂水越のモデル・つかさ食堂(Googleストリートビューより)仲村佐和の現在の住処「食堂水越」は、押見氏の取材の通りに現存しているモデルがあり、Googleのストリートビューでも確認することが出来る(⇒「食堂水越」のモデルである千葉県銚子市外川町の「つかさ食堂
押見氏は実際にここに取材に訪れたことを後記に記しているが、改めて実際にある場所である事を考えれば、感慨深いものがある。当たり前の話だが、実際にこ の場所を訪れたとして、仲村佐和のような美少女が注文した料理を運んできてくれるという保証は無いのでご了承下さい(笑)

“招かざる客”か、遇うべくして遇う運命か

仲村佐和の母親押見氏の演出は非常に細やかだ。
よく散見されるラブコメや美少女系萌え漫画、その他色々では、似ても似つかぬ母娘が平然と描かれる。どう見ても兄弟姉妹にしか見えぬ者、有り得もしない言動行動を齎す者。
だが、どうだろう。惡の華、仲村佐和の母親と思われる食堂店主の女性は、佐和にそこはかとなく似ているようにデザインされている。押見氏の憎いところはこういう事細かな筆致による演出だ。なかなかこう言う技法を出せる作家は多くはない。
実写ドラマのような緊迫感とシーンカットが特長のこの作品において、それに水を差すよう事が一切無いキャラクタの登場。いやはや、押見流はどこまで読者を 惹き付けるのだろうか。佐和の母、春日と常磐をテーブルへ案内するその台詞や表情が実にリアルである。こういうところでも読者が緊迫感を維持し続けられる という秘訣があるのだろう。

そして、佐和母は気づかない。眼前にいる少年が、とある内陸の町で仲村と共に「向こう側」を渇望した少年。佐和のもう一つの過去であると言うことだ。

仲村(水越) 佐和

仲村 佐和(水越 佐和)『哀しみに燻るあの火(日)の夏祭 心を焦がすその残日(火)を 尽くし尽きして想い絶ちなん』

仲村佐和、再登場である。

大人になった清冽純心なるその少女は、セミロングの黒髪に、ややつんとした表情が特徴的とした、中学時代よりも遙かなる美少女となって春日の前に現れた。
その静謐なる立居振舞に、悲しいほど疳高く玲瓏とした声で「クソムシ」と叫んだ姿はなかった。
春日高男が見た仲村佐和は、果たして彼が想像していた通りの「彼女」であったのだろうか。

佐和についての本編考察はまた別の話になるとして、春日の衝撃は一体どんなところにあったのだろう。そして、傍らで見守る常磐もまた、初見ならではの仲村を見通せる心眼を持ち合わせているのだろうか。

同じ時間、同じ境遇を経てきた佐和を想像

春日だけが変わったわけではない。鷹岑は単純にそう思う。仲村佐和も同じように3年と半年という時間を経てきたのだろう。
心の奥底に、クソムシの海と叫んできたその激しく、どこまでも冷たい清冽な純真無垢さを封印しているのか、自らがこの間にそのクソムシの海に染まり果てて しまったのか。或いは、この東の涯の郷愁溢れる港町に、彼女が求めた「向こう側」があったのか。正直、鷹岑は分からない。
静謐なるその微笑みた だ、春日が「仲村さん」と呼び止めたその瞬間の佐和の表情が読み取れない謎。だが、振り返り、「何、その顔? ひさしぶり」と挨拶をした彼女は、常磐文と は対照的な、そこはかとなく引き寄せられ、また春日ではないが放っておけない、どこかしか抱きしめたくなるような哀しみを汪溢させた表情をしているのであ る。

佐和は心を封印して過去を忘却しているのかも知れない。俗世の風習に慣らされて、春日と共に向こう側を目指した頃の彼女では無くなったのかも知れない。ただ、3年と半年という時間だけで、あれほど足掻いた心の叫びを忘れ得るものだろうかとは思う。
もしかすると、いつか春日高男が自分を追ってここまで辿り着いてくれるだろうという期待があったのだろうか。
さり気ない挨拶は、彼女の心はあの時のまま止まっていたのであろうかという、様々な憶測が飛ぶ。

だからこそ、常磐の存在は鎹だ。春日と共に会いに来たのは正解であったと言える。
そして、春日は却来するのだろうか。佐和はそれを望み、また春日と果てしない渇望を滾らせようとでも言うのだろうか。

ラストのコマで再び芽生えた「惡の華」の芽が明日を暗示するように思えるが、春日は結局、常磐との絆を断つことはしないと思う。また、佐和もそれを本心から望むのであろう。
今になって佐和に却来したとしてもそれが本当の幸福であるとは思えない。
次回はおそらく、3年余の出来事を会話する場面から入るのだろうが、佐和が持つ心眼が常磐をどう捉えるのか。彼女との掛け合いが非常に楽しみである。