忘れ得ぬ二人を別つ夏祭奠 想い綴りし浜の潮騒

春日高男、心の痼りを問いかける分岐点 闃然た る佐和と交錯する三世
~海と空の淡きグラデーション、過去(佐和)と未来(常磐)を結ぶ哀しくも 遙遠なる風景


▼佐和の粛然とした様子に驚きを隠せない春日。今はそっとしておいて欲しいと言う佐和の母に、常磐は少しだけ話をさせて欲しいと半ば強引に佐和を呼ぶ。海 辺で話をするから待っていてという佐和。待合の浜辺で、常磐は中途半端ではなく、きちんとケリをつけてほしいと春日に念を押す。今までの事を聞きたい春日 に、佐和は静かな微笑みでどうでも良いよと答える。徐に空を指差し、綺麗と呟く佐和。そして春日は言う。「何故、あの時僕を突き飛ばしたのか」

「惡の華」第53話 アトモスフィア・イメージソング 浅 い夢来生たかお

総合評価★★★★★★★★★★★★★★★

水天一碧、窈窕なる 東の涯で語られし過去と現在の別れ路

来生たかお氏「浅い夢」の情景そのままに、関東地方東端の鄙びた港町に広がる物語は佳境に入ろうとしている。水天彷彿の浜辺
さて、想像に反し驚くほどに静謐な表情を見せていた水越(仲村)佐和と、押見氏の筆致によって表現された水天彷彿たる銚子の海は実に美事で読み返してゆく たびに惹き込まれて止まない不思議さ。

「鄙びたる極浦に馳せし桃源の 瞻(み)ゆる眸に別つ此方を」

春日高男が想起する佐和の心境が少しでも感じることが出来る最初のカットは押見氏最大の魅力のひとつでもある、風景描写。この風景と効果音が読むだけでリ アルに聴こえてくると言うのだから、全く以て凄い作家である。

●春日の来訪を予感していた、水越佐和

過去と現在、そして春日高男黒髪と穏やかな表情。そして、一瞬春日を目を細めてみる仕草。何よりも清冽で澄みきった純粋無垢さがもたらした、祭 奠の“暴走”からはまるで無縁と思ってしまうほどの静謐で、何処かしか達観した様な感じがする。仲村佐和という名から水越佐和に変わった彼女は新たに生ま れ変わっていたのであろうか。

「過ぎし日の思いは名ともうち捨てて 秘めたる君と逢うよしもがな」

果たして水越佐和は、不意に訪れてきた春日高男の声を聞いた瞬間、胸の中に一体どのような去来があったのだろうか。
不思議なことに、前回も含めて佐和は殆ど表情を変えない。まるであの夏の日の祭奠と共に心を置き去りにしてしまったような、言うなれば蝋人形と言わんばか りに脣を間一文字に結んでいるのだ。

その少ない表情から読み取れる、佐和の心理の一片があるとするのならば、おそらく彼女はいつか春日高男が自分を訪れてくるのを待っていたのではないか、と 言うことだ。決して恋い焦がれたり、クソムシの海から這い上がり、向こう側へ行くことへの渇望が残っている、なんてことではない。
大人になることへの足掻き、クソムシの海から抜け出さんと庶幾い、結局自分もその糞蟲の一匹に堕ちてしまうと言う虚しさを越えた諦めとも言える虚心坦懐 か。春日高男に再会することで佐和もまた、過去への区切りを求めていたのであろうかとも考えたが、彼女は自らの行いを間違っていた、と思うほど柔弱ではな い。

水越佐和過 去常磐文未来、 双曲線上に出会った二人

思いが深かった「仲村佐和」と覚悟の再会を望んだ春日高男の胸中は、業が深い事とは言えある意味過酷な修行のひとつのように思える。
まだ、眉のひとつでも顰めるような表情だったならば幾分か春日の気持ちも救えたであろうが、佐和の瞳はまるで無風鏡面の如き、清冽な湖面に東の涯の町並を 映し、春日を過去からの来訪者として捉えているのだろう。不遁(にげず)の決意
伝えられた経緯、その凄烈な心象とはまるで異なる静謐さに一番驚いていたのは、春日高男ではなく常磐文ではなかっただろうかと、鷹岑は思う。
それは、春日とは違う、確固たる第三者の目。春日・佐和、そして一瞥の出会いだった佐伯奈々子が経てきた中学時代を目の当たりにしてこなかった常磐文の特 権に他ならない。

常磐にとっては、春日の心をずっと捉えて止まなかった佐和という存在がある意味脅威だったに違いない。それが果たして会ってみたらどうだっただろう。
非常に静かで、何の変哲もない「普通」の少女だ。家業を手伝い、母親の言う事もきちんと聞く、どこにでもいそうな、俚俗とした可愛い少女。
しかしそれが却って常磐の心を動揺させたのだろう。静謐とした佐和の表情が、実に恐ろしく感じ、また哀しく、それ出ていてそこはかとないシンパシーを懐い たのではないだろうか。
春日高男にとっては、佐和はきっと過去であろう。忘れ得ぬ存在、思い出であってもそれを乗り越えなければならない試練。そして常磐文は共に未来を往くと月 下に誓った伴侶である。
春日のために
「夢見せし赤城の山の“向こう側” 今もとぞ胸に思いを致す入日に」

春日高男のカミングアウトは、常磐を大いに駆り立てた。おそらく、かつて交際していた藤原晃司に向けるものとは明らかに、また全く違う赤心の感情で春日に 向かい、キスをせがんだ。多分、常磐にとっては事実上の心からの口づけを春日に求めたはずである。
そしてそれは、まだ見ぬはずだった「仲村佐和」への宣戦。
正直、常磐は高を括っていたのではないか。究極の「厨二病」を拗らせた、その“イタい少女”が、あまりにも清然とした佇まいを見せていたことが、ある意味 ショックだったのだろう。
これが春日が極限の拘泥に囚われてきた相手なのか。春日高男を知れば知るほど、またそこはかとなく感じたシンパシーが、常磐を焦らせるのには十分だった。
「そっとしておいて欲しい」佐和の母が暗に帰ってくれと示唆することに春日は首肯く。しかし、常磐はそれを構わじと佐和と話がしたいと直接訴えた。
春日が望んでも言えなかったこと、そして常磐が乗り越えなければならないと感じた春日高男との絆。それが合致した時だった。
常磐と佐和。もしも春日高男という人物に出会うことが無かったとするならば、金蘭の契りを交わし合うことが出来たであろう運命の悪戯は、二人を広大な双曲 線上にて巡りあわせることになったのである。

●抱きしめたくも、手が届かぬその立姿

水越佐和。“クソムシの海”の東の涯。彼女がその埃ひとつ無き清純無垢な心をズタズタにしてまで求めた「向こう側」がこの町にあったのか。
静か静けさなる浜辺に物 語の佳境に迫る次回はこうなるだろうという予想屋ではないので、単純に解説したいのだが、そのクソムシの海というものが、無機質で退廃的、一部の異様なナ ショナリズムや反社会性に色めきだつ現代社会を指しているとするならば、佐和は仮初めの静謐さを保っているのかも知れない。表情は死んだように画一で、た だじっと春日や常磐を「見る」。

彼女が春日高男の来訪を待っていたとするならば、また違っていたのか。或いはまだ自らを封じているのか、或いはもはや過去は心の碑に刻んだのか。
自分を連れ出し、再びこの果てしなき蟲の海から這い出ようと踠くのだろうか。
そうした正負の感情をおくびにも出さず、ただ遠くを一点に見つめているその様子を、思わず抱きしめたい衝動に駆られてはしまいか。しかし、不思議だ。何故 か、彼女を抱きしめたくてもそう出来ない何かを湛えている。勝手な想像や憶測の域だが、今の佐和はおそらく春日が徐に抱きしめたとしても、文字通り人形の ように、ただなすがままにされそうな気がする。腕を廻し返すこともなくただ真っ直ぐ瞳を前に向けたまま、僅かに瞳を細める静謐さを保つのだろう。
生気が無い訳では無い。佐和に触れることは多分、容易いことなのだろう。だが、決して手が届かぬその整然とした立姿は、まさに春日の生き方の前に避けられぬものとして見えてきた、過去と未来の交差点なのであろう。

●“仲村佐和”から、“水越佐和”へ

どうやって生きてきたのか春 日を巻き込み、齷齪する世の中を「クソムシの海」と叫び続けてきた仲村佐和。夏の祭奠を経て二人の願いは引き裂かれてしまったわけだが、面白いことに、知 人親族を大いに巻き込んだ割には一家離散と言った家庭崩壊には至っていない。佐和の方は離婚はしたと思われるのだが、片親について佐和も暮らしている。そ して、当の本人たちも祭奠事件に関しては「悪いことをした」と言う風には思っていないのである。

徳永英明の名曲「JUSTICE」を鷹岑は引き合いに出して佐和と春日の思いを考察しているのだが、やはり二人がしたことは、紛れもない正義なのである。
自らが信じたことを願い、それを貫いてきた事は自分の存在意義であり、確かな証である筈だろう。
仲村佐和はあの祭奠で死し、水越佐和へと生まれ変わった。などという手垢の付いた手法もよろしくまた、春日と同じように、佐和もまた胸裡に想いを致しながら過ごしてきたのであろうか。
まあ、次回以降秘められた「仲村佐和」の物語が語られることを期待したいところではある。

●曈曈とゆくと流れて晩暉射す 輪廻は巡る君と波間にきれい・・・

春日高男の来訪を予感してたとするならば、佐和の逸宕飄然とした様子も不思議ではない。彼に見せたかった「向こう側」が、銚子の海ではあるまいが、山間の町にあって運命を共にしようと誓った佐和の心は本気であったはずである。
水平線を東より昇って、西に沈む。関東の東端の浜辺から天空を指さし、水天彷彿たる眼前の世界を「キレイ…」と澄んだ瞳で呟く佐和は、きっと春日にも見せたかった風景であったに違いがない。
恋愛よりももっと深く、言葉を悪くすればドロドロとした心底を繋いだ春日と佐和。それは既に「救う」という言葉すら超越した、現在の春日高男を構成する身体の一部とも言って過言ではあるまい。

鷹岑は思うのだが、そういうことは常磐との現在、そして未来も全て佐和という少女との過去を踏まえてある。そして、常磐も傍らで見て気づいたであろう。春日と仲村のそうした深いプラトニックで繋がれた過去。
恋愛という観点で見れば、多分春日と佐和は必然的な永訣を迎えるだろう。そして、春日にとっては隣に立ち、同じ目線で歩むことが出来る常磐こそが自然の帰結であろうと考えるのだ。
何時ぞやの考察でも言ったように、惡の華は破滅の象徴ではない、創造・再起の象徴たり得るのである。佐和が指さしたその先には、彼女自身が求めた向こう側の真実を捉えているような気がしてならない。


おいしいから(水越佐和)
静謐な表情を殆ど変えなかった佐和が、そこはかとなく儚げで寂しさを滲ませた一場面。春日のことを待っていたのか、招かざる客だったのか。かつての突き刺すような清冽さからは正反対の様子に、春日は戸惑うのである。
ごめんね(佐和の母)
それは明確なる春日の拒絶を意味しているのは間違いが無いのだが、ここで春日が言うが儘に下がっていたら何の意味も無かった。そして、佐和の母自身、祭奠事件は我が子ではなく、春日高男との出会いこそが原因であると思っているのだとすればそれは違うと思うのである。
ほんと悪いんだけど!(常磐文)
常磐がいなかったらと思うと、哀しみが尽きず。佐和の母の拒絶を凜然と押し通り、佐和との対話を望んだ彼女の存在は、過去の因果と対峙する事への逡巡と怯懦に苛む春日高男にとっては何よりも代えがたいものであった。
どーでもいいよそんなこと(水越佐和)
この台詞の言い回しが、かつての仲村佐和を面影を漂わせている。春日が歩んできた三年と、同じように歩んできた佐和の三年。忘れた、どうでも良いとほくそ笑む彼女の表情には執着も憎悪もない。
ぐるぐるぐるぐる(水越佐和)
輪廻転生という言葉が正しいのかどうかは分からないが、佐和がこの町で見続けてきた空の中に、何かを見つけるものがあったのだろうか。祭奠の夕陽を「ねちょねちょのドロッドロのクソまみれのドブ生ゴミみたくキレイ……」と表現した佐和にとってみれば、もしかするとそれを越えた先に見つけた世界の広漠さに圧倒されているのかも知れない。