自分を鑑み、老熟した世渡り上手の現在たりえる少年と、意気軒昂だった少年時代の少女の双曲線

自らを投影出来る主人公とヒロイン。斬新かつ奇抜な物語に大いに期待

~今の自分に主人公・松山透を重ね、10代から20代の自分にヒロイン・幸田晴紀を見た、メランコリック・ラブコメディ

筆致評価★★★★ / ストーリー評価★★★★★ / キャラクタ設定★★★★ / 作家将来期待度★★★★★(+5)

総合評価★★★★★(+5)

◆本音と建前を使い分けて交友関係の広い主人公・松山透と、心ないことを言うのが苦手で本音しか言えないヒロイン・幸田晴紀。晴紀が透に「嘘のつき方を教えて欲しい」と持ちかけることから、この物語は始まる。

思わずパラ見の手を止めてしまった読切作品。それが最後(笑)

鷹岑は取りあえず週刊少年マガジンについては、発売日に買った後、まずはパラ見で済ます。真剣に読んでいる作品がいまや大今良時氏の「聲の形」のみとなったので、本来読切作品には手を付けるものではないと思っている。
新進気鋭の若手作家・長門知大が描いた「お友達から」も、鷹岑的には当初スルーするつもりだったわけだが、いつもながらパラ見した時、何気に気になったのを忘れない。速読というのも烏滸がましいが、その筆致と吹き出しのセリフに鷹岑らしからぬインスパイアを受けたのだった。
聲の形の読後に、何気なしに当該作をきちんと読んでみたのがある意味運の尽きだった。

面白い。

聲の形の考察でも目一杯なのに、これは感想考察記事を残さなければ。長門知大という漫画家を天昇る竜にしなければと言ういち読者の老婆心がこの考察記事を駆り立てたのである。週刊少年マガジン編集部に手紙を送れば良い? 担当編集者経由で伝えるよりも、鷹岑のようなひねくれ者はブログで十分。故に、この考察記事を手紙代わりとさせて頂く。

『成熟』した主人公・松山透、『怖れ知らず』のヒロイン・幸田晴紀

この読切作品を拝読して、第一印象は実に奇特なものだった。見出しにも書いているように、主人公の松山透、そしてヒロインの幸田晴紀。両方に鷹岑自身を感情移入出来るというのである。「お友達から」のCC
普通ならば、主人公が男であるならば、主人公に感情移入をしてヒロインを初めとする登場人物たちに思いを馳せるものであり、主人公が女であるならば、読者が男ならば、相手役になりきり物語を捉える。そう言う見方が一般的であると思う。
ところが、この「お友達から」は、そうした規定概念を覆す斬新かつ非常に奇抜な視点をもって鷹岑の目を惹き込んでしまった。

冒頭センターカラーのメインヒロインのセリフ「誰より上手く嘘をついて、なおかつ友人の多い」、「嘘のつき方を教えて下さい」に、鷹岑は惹き込まれた。

●松山透

松山透は「建て前」を言える設定とされる。言葉を悪くすれば阿諛追従の達人と言うことになる訳だが、彼はそのまま社会人の営業担当ならば、紛れもないエ リート出世組。本音を隠し、トレンドや愛想笑いをこなし、それでいて友人関係(知己)に満ちている。こう言った人材は営業畑は喉から手が出るほど欲する。 高校生でそのスキルを備えている松山透はまさに天性の才能。高校生にして老熟した人付き合いの何たるかを理解しているのである。
鷹岑はおそらく彼の倍は生きているのだろうが、彼ほど「建前」の縦横無尽な行使のあり方をマスターしているわけではない。人付き合いや、おべっかが苦手な 性格だから彼のあり方をリスペクトしている方である。今にして思えば、彼のような考え方が、賢い人生の生き方である、と言うことなのである。建前が全て
考えてみれば、松山透は本音はどうあれ建前のためにトレンドを取り入れることによって話を合わせるスキルを得る努力をし、憮然たる表情を表に出さず、愛想 笑いでも笑顔を見せることによって心証を良くしようとする。そういう努力を尽くしているという点は、純粋に高い評価が出来る点ではないだろうか。鷹岑はず ぼらで面倒くさがり屋だから彼のようには出来ない。だから、今になって色々と損をしているのかも知れないが。
「建前が大事」、「自分で言うのも何だが性格が悪い」と松山透は言っているのだが、現実として建前を言うことや、性格の悪さを徹することの難しさはやはり 年功を積んだ者にしか言えない部分であるように感じる。普通の人間だったら、やはりどこか悪になりきれない部分があると思う。「建前が全てだ」と高校生の 身で断言出来るところは、今現在の鷹岑からすれば大いに共感出来るのである。だからこそ、老熟の主人公と評するのだ。

●幸田晴紀

幸田晴紀片やヒロインの幸田晴紀は、個人的にそこはかとなく懐かしさが漂うキャラクタだった。
馬鹿正直だと主人公・松山は評するが、鷹岑的には10代・20代の頃の自分。ある意味怖いものを知らず、ただ自分に正直に、根拠もなく自分自身をひけらかして駆け抜けていた頃を思わせるような、若さを彼女に見るのだ。
嘘をつけず、思ったままを口にする。当時は世渡りという言葉など屁の河童と意気がり、そうすることが格好いいという今で言う一種の「中二病」の後遺症。幸 田はそうすることが自分らしいこと、またそんな自分が格好良いという自惚れには囚われず(と言うか、そう言う感覚もないだろう)、嘘や建前と言うものが齎 す器用さを知らない、純粋すぎるほどに純粋な少女。思ったままを口に出来る事は古今東西、他者に嫌われ、変人扱いされる反面、内心憧憬の対象とも言える。 嫌われると言うことは、大概として誰もが思っていること、言いたくても言えない事を言うことである。
人は一度怖さを知ればそれを「勉強」として防御を覚える。すなわち、嘘と建前というものを覚えてゆく。それを積み重ねて“一人前の大人”になってゆくのであろう。
幸田晴紀はまさに鷹岑が10代・20代の頃を振り返って感じた、怖いものを知らずに我武者羅に自己を貫いていった「子供」を見るようで、懐かしく、また今猶胸の中に残影として残る、「あの頃の僕」そのものなのである。

大人と子供の双曲線

「お友達から」は、そう言った意味で、現在の「私」と、昔の「僕」が時系列を同じくする、センチメンタルメランコリックという意味合いを鷹岑は感じた。ラ ブコメディという定義づけも出来ようが、陳腐なボーイミーツガールに押し込めてしまってはこの作品の本質は見失ってしまう可能性がある。私の前だと・・・
比較的大人な主人公・松山と、天然ボケで言動暴走気味なヒロイン・幸田という、ドタバタはちゃめちゃなアトモスフィアっぽく見えて、実はこの二人に自分自 身を重ねる、という見方をしてみれば「若かりし時の俺は~」という随分じじ臭いメランコリーに囚われてしまう不思議さがあるのだ。
多分、この作品を読んでいる10代から20代の諸君は鷹岑の評価を意味不明とか、何的外れなことを言っているんだと思うかも知れないが、大今良時氏が描く 「聲の形」の主人公である石田将也の設定(当該参照)とは行かずとも、少なからず人生どん底を経験してきた30代から40代の読者。振り返ればそれなりに ご大層な夢を持っていたなと感じる諸卿ならば、寸分なりと幸田晴紀にシンパシーを感じるのではあるまいか。

人の一生という大きなテーマがこの作品に当て嵌まるかどうかはともかくとして、自分自身というテーマに置換して読んでみると、一生の双曲線に子供の頃の自 分と、大人の自分が出会った感覚にこそばゆい。松山がイケメンだとか、幸田が美少女だとか、そういう問題を通り越して、自分史がこの二人によって演じられ ている気分になる。面白さもさることながら、昔を思い出す部分があるたびに気恥ずかしさが先行してしまう部分もあったりするのだ。素顔が嬉しい

大人への羨望と、今を楽しむ気持ち

幸田の前だと思わず素になってしまう松山。それは無意識なりとも彼女といると肩肘を張らずに済むのだから然もそうずである。
確かに、設定とはいえ高校生で本音と嘘と建前を縦横無礙に使い分ける事は、大人ですら肩が凝ることなのに、それでは若くして精神をすり鉢にかけてしまうようなものだろう。
幸田の前だと、そうした建前や愛想という虚飾を脱いだ本当の自分をさらけ出せること。自分の本当の姿を知り、理解してくれる人間の存在という、人は独りで は生きていけないというこれまた壮大なテーマに発展してしまいそうだが、ここはグッと我慢して松山も実は彼女の前が単純に心地よい。ただのバカだろ
幸田からすればそうした「大人」になることへの憧れ・努力を彼に求めながらも、自分と同じ目線で、本音を語り合えることの喜びと楽しさを共有するという、 若さゆえの特権を彼にも知って欲しいのであろう。社会人になれば、いかに無礼講であろうが素や本音を曝け出して馬鹿になれる機会はぐんと少なくなるもので ある。
馬鹿になりきれる、本音をぶつけ合えること。歳を重ねていけば分かるだろう。そう言う何気ない時代がいかに大切なものであったかと言うことだ。
鷹岑ほどの年齢になると、馬鹿になりたくてもなれるものではない。と、言うよりもそんな余裕すら感じなくなる。松山のように本音と建前を日常のように使い こなしてゆき、次第に喜怒哀楽をも表せなくなってくる。常に愛想を振りまき、角の立たない建前で職場環境を維持する術を会得してゆくと同時に、怖い物知ら ずで駆け抜けていった馬鹿は、気がつけば利口な生き方に目立たなくなってゆく。「やっぱり、ただのバカだろお前」という感心を受けて、屈託無く笑う幸田晴 紀のこの表情は、二度と出来なくなってゆく。だからこそ、センチメンタル・メランコリックなのだ。

「大人」になることへの戸惑いと、自分らしさ

お前らしさ上辺だけの友人関係。週刊少年マガジンで連載されている先述した「聲の形」も、友人とはなんぞやというテーマを提起している。
深く互いに関わらない、表面上の多くの友人か。一生に一人で良い、心の底から信頼し助け合える友情か。価値観の違いだろうが、鷹岑が「お友達から」に共鳴したコンセプトは、多分後者により近い物があるだろうと確信している。
この作品を読めばさて昨今の人間関係というのもデジタル化して無機質になったものだなあとジジイ根性むき出しになるからやめておくが、奇しくも嘘や建前を身につけんとした幸田の変化に、松山は激しく動揺する。
「本当の松山くんでいて欲しい」と吐露した幸田。それは明らかに彼女自身がそうした大人へと昇華してゆく事への戸惑いと怖れのように感じる。そして、そう願っていた幸田の変化に、松山は自分自身を見るのだが、一読者の鷹岑もまたこの二人に強く自分自身を見るのだ。

クソ女共が松 山が言う幸田の良いところ、幸田が言う松山の良いところ。実はそうした本音で語り合えることと、猪突猛進・怖い物知らずの少年少女特有の純粋さに共通する と同時に、鷹岑は今の自分自身を含めた、そうしたデジタル化の無機質な大人社会に対する痛烈な皮肉のようにも思えてならない。
スマフォも良い、LINEやSkypeも良いだろう。だが、松山が素を曝け出して怒った言葉の抑揚、青筋の立ち方、迫力。そうしたものは無機質なフォントや高画質の写真では伝わらないものもある。
いかに機器が優れ、便利な世の中になったとはいえ、人間同士はどう足掻いても血が通うアナログなのだ。人の耳目に勝る高画質・高音質はない。そう言う意味 では、この「お友達から」にはストーリーに係わるデジタル機器は殆ど登場しない。そこもまた、鷹岑が大いに感心する部分である。

裸の心、さらけ出した先に……でも「お友達から」なんです

嘘と建前が言えなかった幸田晴紀が心ないことをさせられそうになった時、松山透は自分の仮面を脱ぎ捨てる決断をする。大人から、少年へ。だが、それは逆行ではない。当たり前のことだ。松山は松山らしく、広義的には年相応の少年に回帰するということなのだ。
幸田への憧れ鷹 岑からすれば、二度と戻れぬ10代の自分。そこへ帰れる「お友達から」の主人公・松山透に重ねる自分自身。要領の良い大人へと変わる時に、自分らしさを 失ってしまう事への苦しみ。やりたくないことをしなければならない事への葛藤。それをヒロイン・幸田晴紀に重ねる自分自身。自分らしさを失わずに済んだ、 幸田への安堵感。
そうした主人公とヒロインに対する、過去と現在の自分自身の感情移入が、この作品のクライマックスで絶妙に心を騒つかせる傑作に仕上がったのである。

物語では幸田は元に還り、松山はそれまで積み上げてきた浅薄な友人関係を失った。しかし、彼がしっかりと握ったその手には、心から理解し合える「友」を得ることになる。
幸田を意識しているのかどうかは微妙だが、どうもラブコメディ未満も相当にボケとツッコミの男女漫才風情。オチとしてはそれが実に心地よい。
そして最後、真っ新になった二人の前に、二人が収斂する端緒でもありクラスメイトにいじめられそうになっていた少女・鹿野が友達への切っ掛けを求めるとこ ろで終わった。髪をほどき、メガネを外せば超絶美少女というお約束気味の鹿野を真正の友に加えたラブコメへの道を開くことになるのだろうか。

総評

これが読切りとは実に惜しい気がする。筆致は若き新人作家らしく磨れていないところが好印象。笑顔を作る時に口を大きく開ける作画は鷹岑的には実は好きなところで、岩手県出身の漫画家・飛鳥あると氏の筆致を想起させた。
終盤の幸田を止める場面もそういう感情移入もあってジンとしたし、細かい設定上の事は読切りのこともあって大目に見たとしてもテンポが良くて面白かった。
もしも連載されるようなことがあれば、もう少し間を割って新しいエピソードや設定を加えて丁寧に描けば良いだろう。聲の形の顰みに倣って欲しい。

マガジン編集部も良い仕事をする編集者もいるものだと感心。聲の形以来、良い作品に出会えました。重ねて感謝いたします。


誰より上手く嘘をついてなおかつ友人の多い (幸田晴紀)
何よりも多くの「友人」を誇る人々への痛烈な皮肉。だが、決してぼっちを擁護しているわけでもないところがミソである。
適当に…… (松山透)
その適当のために常にトレンドに目を通す努力は凄いと思う。
全員がこれをかわいいと思える特殊な感性を (幸田)
日本特有のコンセンサス社会の特徴だ。自己主張が強い欧米では嫌われるだろうね。
いたずらにも限度があります (仝)
クラスメイト・鹿野に対するいじめの端緒に対する幸田の表裏なき苦言。怖い物知らずの剛力だ。
鼻毛出てますよ☆ (仝)
気遣いをしろと言う。こういうところも日本人の特性。幸田はある意味欧米型人間なのかも知れない。
嬉しくて (仝)
胸キュンな表情なのだが、そこは読切りのウィークポイント。ラブコメどころじゃねぇ、とばかり。
やっぱただのバカだろ (松山)
心を許した友達同士での最高の賛美というのは、不思議と貶す言葉になるものだろう。
クソ女共が!!! (仝)
何でだろう・・・なんか最近心の中で溜まっていたことを松山透が叫んでくれた気がする。
一緒に食べていいかな? (鹿野さん)
磨けばダイヤモンドタイプの三つ編みメガネのクラスメイト。何気に巨乳なところが読者サービスなんだな(笑)
ちなみに鷹岑はベタベタの美少女よりもこういうタイプが好きである(ぉぃ)