植野直花、将也の赤心を慮りて硝子を烈しく打擲す

将也復古を悲願と成す烈誠の少女、硝子の卑怯を瞋怒する

~自殺未遂の巻き添えを受けた将也の本心を忖度し、硝子を打ちのめす植野悲痛の抗心

▼将也の一命は助かった。硝子が助かって良かったと言う将也母に、土下座をして謝る西宮母と結絃。一方、なかなか訪れない硝子を探しに行く結絃は、永束と 佐原を見つける。そして、烈しい怒号と衝撃音に驚いた結絃らは、植野の烈しい攻難を受ける硝子と植野の様子に慄然となった。

総合評価★★★★★(+2) 対植野直花評価★★★★

主人公石田将也、本編未登場回

本編に於いて主人公である石田将也が回想も含めて登場しなかった異色の回。石田・西宮の両母、そして植野直花がそのインパクトを埋める役割を果たす。将也の容体
鷹岑は良い感じに混沌(カオス)となってきたなあと呟いたが、植野の鬼神の形相と硝子に対する烈しい暴行の様子など、大今良時氏が目指す聲の形の帰結ハー ドルは、更に峻険になってゆくと言うところが非常に見所であると思うわけであり、その自信の表れに改めて深く敬意を表する。

一般論として、主人公が登場しない本編というのは非常に難しい。漫画や小説、アニメ・ドラマでは良くある話だが、それは広義的に「外伝」という位置づけをしている場合が多いからだ。
今回の話の特徴は、主人公サイドでもメインヒロインである西宮硝子の目線でもないのが特徴で、外伝というのも必ずしも特化した主役がない。将硝の母親から 始まり、後半は将也を想う植野。聲の形最大の山場とも言える夏祭奠の事件に関して、聲の形の基本理念を踏まえた周辺環境の心情披瀝は一読者として求めた かったものであり、個人的には時宜に適した描写に対して評価をしたい。
まあ、さすがに主人公・将也を死亡退場させるという離れ業は能わなかったが、そうした技術的な事に偏重するのも本質論からは外れそうなので、将也存命は当たり前なのである。

“ママ宮”の土下座がもたらす気概

ママ宮聲の形は、まるで洗練されたカメラワークのようなコマ割りが目を瞠る。個々のコマが映画然とした細かい背景描写や人物の心的動静に耳目を傾ける技術はやはり漫画にとっての大きな基礎基本であろう。
それまで“下品”とまで痛罵してきた石田母子の前に毅然と歩み寄り、颯爽と地に額をすりつける場面は、その印象の強さの上に彼女の人生経験に裏打ちされる強靱さと脆弱を併せ持つ姿を読み取ることが出来ると言えるだろう。
硝子に対する過保護とも言える御母堂の概念は、今回のこうした硝子の行動に対する一種の責任のあり方を、相手に転嫁して責め詰ると言うことはせず、ダイレクトに硝子の非を受け止めて機先を制するのである。
将也母に叱責を言わせる前に先制するというところは御母堂のギリギリなプライドであると言っても過言では無いのである。土下座・ママ宮

●将也母の本音

将也の母親からすれば、十中八九息子の素行が要因であるとは言え、そればかりを論って理不尽な命のやりとりに及ぼされてはたまったものではあるまい。
いくらなんでもやり過ぎではないか。怨恨のスパイラルとでも言うのか、ママ宮のように思い込む様な性格ならばともかく、将也の母のように苦難を経ても前向 きにありたいと願い続ける性格の人にとっては余計、そうした相手への怨恨を、自責によって塗り重ねて抑制しようとする。それで過去の出来事を相殺すると割 り切ることが出来れば良いのかも知れないが、人間そうは上手くいかないものである。
将也母としては、結絃や硝子に対する表面的な好意のように、自覚している意識以上に西宮家への複雑な思いが強いと考えるのが妥当だろう。

永束友宏・佐原みよこ、改復軌道への修整

永束・佐原、改復軌道 石田将也によって白紙に戻された蜜月時代だが、その真価を問われる事になった周辺環境。将硝を中心に回っていた友人の公転軌道。そこから弾かれた面々の中 で最初に改復を目指すキャラクタは、永束友宏と佐原みよこの二人であるという予測は、聲の形読者の中では比較的ポピュラーな予想だったのではあるまいか。
永束は石田将也、佐原みよこは硝子指向での改復軌道への修整が図られた。無難な線である。
まあ、物語上でこの二人が将硝を見限るという可能性は限りなく低いものだったが、二人の改復を考えてみれば、実は将也の懊悩というのも詮なきものに思えてしまうのである。
将硝が歩んできた傷や悩みそのものは非常に過酷で夜も眠れないものなのかも知れないが、佐原や永束らにとってみれば、命の取捨と言った、それほど深刻な事 ではない。勿論、他人事という意味合いではなく、そうした過去の経緯がどうあれ、真の意味で修復不可能なの交友瓦解ということはない(まあ、さすがに永束 や佐原の家族が将也らに殺害されるならば話は別だが)。

植野直花、瞋恚の炎熾烈に硝子打擲に対する同意の念

植野と硝子さ て、今話最大の注目点は植野による硝子殴打のシーンである訳だが、一概に植野の暴走と暴力のあり方が悍ましい、という感情は不思議と鷹岑は懐かなかった。 ここが考察を大いに悩ませる切っ掛けともなったわけで、硝子を障碍者という視点で捉えることと、かくいう鷹岑家文書で当初から指摘しているように、硝子を 一人の人間として捉えているという考え方では、植野の行動は評価を真っ二つにすることであると考える。

硝子暴行の場面を別とした植野の言葉そのものを熟考してみれば、彼女は将也を一途に思慕していると言うことと、逃げの姿勢に甘んじる硝子への苛立ち、という基本原則が一貫している。
硝子が植野に送ったとされる手紙の内容が公表されたが、その内容はともかくとして硝子の考え方を卑下したり、見縊るという姿勢はなく、彼女もまた硝子を一 個の人間として捉えようとしていたと言うことがようやく気付いた気がするのである。まあ、将也が硝子を「障碍者」という視点で捉えていなかったことに対し て、植野はそれを認識していた上での話だから、一概に将直は一緒くたには出来ないのだが。佐原×植野

■一線を保った激情~鬼面女と対する親友の追求者

鷹岑は他者のようにそれほど深読みをするような読み方をしていないので、単純な話植野がそこまで将也を想っているという感覚に正直驚いているのである。
まあ、切っ掛けは硝子の自死未遂行動における将也の身代わり重傷に対する厳咎だが、読み進めてみれば硝子は何故死のうとした、と言うことに対する追咎でも ある。硝子の存在を苛立たせながらも、将也が植野が知るかつての将也に戻って欲しいと願う思慕と、それでも“成長”した将也を受け入れたいと望む葛藤の狭 間で、それでも硝子の存在が消えて欲しいとまでは望んでいないという、一線をきちんと保った心理が読み取れる。もしもそうならば、「死ぬならば誰にも迷惑 を掛けないところで死ね」と言うような事を仄めかすだろう。

硝子打擲を止めに入った佐原は敢然と植野に対峙するが、建前のヴェールを脱ぎ捨て真理に打ち付ける植野と硝子の間にあっては佐原の覚悟の真価も問 われることになる。将也が指摘した当時の佐原の本質と相俟って、植野が滾らせた瞋恚の真実から身を挺したことの意義と硝子に対する感情の根拠を、後に自問 自答する必要性に迫られていると言えるだろう。害悪

植野の鬼面形相は鷹岑は理解出来る。自死を図って他者を傷つける結果となった事は、道義的な殺人未遂とも言う論拠を呈する。ましてや好きな男が何故そこま で肩入れしなければならない聾の少女の自死未遂行動に巻き込まれなければならなかったのか。加減次第であるとは言え殴蹴打擲そのこと自体は非道いことだと は思わない。そしてこの植野の痛罵が、結局佐原や結絃の感情を止めたのである。

■西宮硝子、その存在と心裡の奥底

植野と硝子は、その基本原則として不倶戴天である。硝子を「害悪」と断罪することは根本的に硝子とは相容れぬ仲であると言うことの本質論である訳で、硝子が送った手紙の内容からしても、その生き方の根本的考え方が正反対である。
鷹岑は将也が硝子のことを障碍者であるという認識は最初からなく、一個の人間として対していたと指摘し、硝子はそんな将也らの見方が嬉しかったと考察して いたのだが、植野への手紙はそんな「障碍者」という事実を錦旗・免罪符として硝子自身が利用しているように捉えられる気がするのだ。植野が瞋怒するのはそ う言う部分であると解釈してもあながち間違いではないように考えられる。

鷹岑は硝子は非常に気丈であると言っているのだが、そうした自らの立場を使い分けて来たとするならば硝子は気丈・健気という範疇を超した性格の持ち主であ るように思えてならない。植野が詰った「害悪」や「性悪女」という言葉すら生温い、非常に強かな少女であるように思えるのである。
ただ、これまで硝子そのものの心理描写は極端に少ないので、後日それが明らかになってゆくことを願っている。
ママ宮:特技・平手打ち

どうもすみませんでした (ママ宮)
機先を制する西宮母の土下座謝罪。将也母に詰難の余地を与えなかった。ギリギリのプライドは健在。
みんなにも伝えちゃったけど (永束友宏)
佐原と共に改復軌道への早晩回帰が予想された面々である。
テメーの代わりに… (植野直花)
硝子を攻難する植野直花、美少女台無しに般若と化す植野の形相はラブコメ色を一夕に消し飛ばす。
ふたつの気持ちの間で葛藤するうちに… (硝子の手紙)
物は言いようだが、要するに硝子なりに覚えた処世術・匙加減である。
害悪 (植野)
今回の植野に対しては悪印象はない。表現はともかくとして、硝子に対する攻難は的を射たものだからだ。
思い上がり (仝)
死を覚悟するならば、隣県東尋坊にでも赴けば良いわけで。冗談はともかく、いちいち尤もな植野の号叫だ。