苛烈赤心の撲合、西宮・植野の個々の正道、まさに震霆の如し

拳尽きた先に求めた冀望の片鱗、乗り越えし峭巉の峠の向こう側

~打擲の応酬で抉り出された西宮硝子の天涯、理想郷の巉巌たる峠を越えて見下ろす新たなる世界

▼殴り合う植野とママ宮。力尽きた彼女らに対する放心の結絃。それでも友人だと語る佐原。夜、結絃は徐に家中に飾っていた写真を剥がし始める。硝子に伝え たかったことが伝わっていなかったことに対するけじめ。綺麗になった部屋の中で、西宮家は欷泣に眩れる。翌日、硝子は毅然たる表情を浮かべて出掛ける。

総合評価★★★★★(+5)

硝子の“仇敵”植野直花、冷眼の烈女にその瞋恚と修羅を綏まされる

植野ラママ宮ま さに般若の面と化した植野直花に対して、石田将也に硝子絶対視の端緒を与えたママ宮のスラップ。コーエーの三國無双シリーズで、無双武将・甄姫が奥義とし て発動するスラップは敵を一撃で粉砕する。まさに甄姫と被るママ宮の究極の奥義とも言えるそのダメージも何の其の。石田将也を命の危険に晒した硝子への憎 しみを較べればそんなの片腹痛い。たとえライフがゼロになっても一矢を報いよう。植野の瞋恚の炎は、筆舌に尽くしがたいものがある。
ただ、炎の植野に対して、ママ宮は恐ろしいほどに氷の如き冷眼を植野に向ける。炎と氷。その対比が不謹慎ながら鷹岑は慄然となりながらもそこはかとない嗜虐的なフェティシズムを感じた。
多くの若き読者には悪いが、ママ宮にしろ将也母にしろ鷹岑としては歳も近くガチで交際したい範囲なので、うら若き植野と、爛熟のママ宮の物理的闘争はそれ がもたらす、或いは読者に問いかける本質論とは全く別として僥倖に他ならない。美女・美少女が顔を腫らして口許から血を滲ませる事は、他の諸作品ではなか なか出来る事ではない。
殴打の応酬鷹 岑は男なので、女性に暴力を揮うというのは絶対にあり得ないことだから、多分ドメスティックバイオレンスという概念もよく分からないのだが、確実に言える ことは、鷹岑だったら交際なり友人関係である相手の女性が自分に暴力を揮うことになってしまったら、私は恥も外聞も捨ててその場から逃走する。女に手を上 げるということは人間を捨てることだと思うから、鷹岑はやられっぱなしも嫌だとして三十六計なんとやらだろう。命の危険に晒される自体ならば近所の交番に飛び込む。
閑話休題。
しかし、聲の形第44回~45回は女性同士の殴打・打擲の応酬だ。男が女に暴力を揮うと言った人非人のやることでは無い、女同士のガチの戦い。それならば良いだろう。

植野とママ宮の殴り合いの構図。ラブコメでは120パーセントあり得ない、また見ることが出来ない貴重な場面だ。髪を掴み、乾いた疳高き搏音が効果線と共 にリアルに聴こえてくる。先日も言ったが、映画のカメラワークのようなコマ割り。シャープな筆致が齎す独特の雰囲気であろう。

◆女同士の拳の語らいは何を悟らせたのか

などと大仰なことを言うが、生温い語り口調や馴れ合いで丸く収まるというような展開よりも、聲の形のような物語の水準ならば暴力の応酬という表現は理解の範疇だ。
後悔そもそもいじめという重いテーマに加えて、障碍者虐遇というタブーに踏み込みながら、今になって甘い馴れ合いと言うこともないだろう。
硝子虐遇に関わった一連の主要人物達は植野の制裁を以てほぼ完遂されたと見てしかるべきだが、やはり鷹岑はそれでもこの作品に於いて因果応報という言葉はしっくりこない。
考察において、鷹岑は虚空の奈落。将硝が堕ちたのは真っ暗な地の底ではなく、透徹な高天のただ中と表現したのだが、その意味の一端が今回の植野とママ宮の 打擲の応酬の中にも見出せると言える。必ずしも絶望的ではない、暴力と罵詈のただ中にあってなお、一片の前向きさというのを鷹岑は感じるからである。

ママ宮は植野を冷眼で突き刺してスラップをする。彼女にとっては植野は所詮、石田将也と同類のように見えたのだろう。ただ、贖罪の概念に囚われ続けた将也とは異なり、植野は敢然と反抗した。そこにママ宮はそこはかとなく波長が合うように感じたのだろうか。
「子供のしつけが出来ないならガキなんか産むんじゃないよ」という台詞は、たかが16,7の子供が言う台詞ではないが、ある意味女性同士だからこそ、通じ 合える何かがあるのかも知れない。そこは鷹岑は男であるし、作者の大今氏は女性であり、劇中のバトルロイヤルも女性同士であるから、その深意は推し量る可 くもない。
ただ、確実に言えることは殴打の応酬で傷ついたとはいえ、植野が硝子を烈しく打擲したことを三途川の滸から還った将也が無碍に拒絶するという空気はないと 鷹岑は感じる。人は死ななきゃ治らない、痛い目に遭わなければ分からない。とは言うが、お釈迦様や三皇五帝でもなければ、果たしてその通りであろう。いか に立派な御託を並べ立てていたとしても、実際行動が伴わなければ話にならない。
将也が硝子絶対視という、ある意味呪縛のようなものから昇華するためのイニシエーションであったとするならば、植野の烈誠の心から来る般若の形相も毒々し いバツ印と較べれば随分と美少女たらんというものだろう。そう言う意味で、植野は確かに将也が実は心の奥底で封じ込めてきた硝子に対する負の感情を代弁し てくれたと言っても過言では無いのである。

結絃、写真収集の終わりと応募作の行方

もう一人の主人公としての立ち位置である西宮結絃の心情変化も聲の形を咀嚼する上で重要な要素である。
写真収集の終焉今 回の夏休み篇で、西宮家に置かれた謎(硝子の表情と死骸写真の収集)が明らかになった訳だが、死骸の写真が硝子の自殺願望を抑止するためのものであったと いうメタファーであったとは気付かなかった。そもそも硝子を気丈な性格であると確信してきた鷹岑からすれば前提が違うから気付くよしもない。まあ、儂もま だまだ修行が足らん(男はつらいよの御前様風に)

そのメタファーが破れたとして、写真が飾られていた西宮家の室内が、次第に真っ新になってゆく過程は、硝子自殺未遂という衝撃の場面が齎した、西宮家のイニシエーションでもあったことを考えると、結絃の目指してきたものが必ずしも無駄ではないと言うことが分かる。
死骸の写真は無くなったとしても、ママ宮が応募したという一枚の写真が残っている。草叢から飛び立った鳥の形の跡。あれがひとつのこの物語が成す形のひとつであるように鷹岑でなくても感じる人は多いだろう。
斯く言うように、聲の形は絶望のどん底という雰囲気をほとんど感じない。将也が高校に到って硝子から手を握られたその時から、いかに竹内教諭が非道いと か、川井の腹黒さが云々というようなネガティブな見方を呈しても、彼らの先に広がるのは暗澹ではなく透徹の青であるというのである。
死にたい
硝子が死にたいと感じていたことと、結絃が示してきた写真収集。それでも硝子の心の裡というのはまだ一定の謎が残る。
死を覚悟した人に時宜を問うのは詮なきことながらも、結絃が投石を受け、身代わりとなった硝子がボロボロにされた時に示した死にたいと言ったその時の容 貌。その一方で硝子は植野に送った手紙の内容から穿った見方として彼女なりの処世術を示しているなど、当たり前な生への拘りをも持っている。
今回の飛び降り未遂が文字通りに「私と一緒にいると不幸になる」という将也への深い想いから来るものだとするならば、結絃のメタファーはまさに空回りの最たるものだ。ゆえに、鷹岑は硝子の動機はいち方便のように思えなくもない。
ただ、硝子が長く死に場所を求めていたとするならば、余程の強い意志を持ってベランダを乗り越えたのだと思うから、彼女が死することによって遺された人々に降り注ぐそれまでとは比較にならないほどの不幸を覚悟していた、と言うことなのかも知れない。
それがなかったら、今回の苛烈なイニシエーションを経て、硝子が見せた凜乎とした表情の意味を繋ぐ線を求めることは至難である。

西宮硝子収 集場所に積み上げられた、西宮家排出のポリ袋の山。その傍らに幼児が乗って遊ぶおもちゃの車。その意図するのは硝子にとっての過去を乗り越えると言うこと なのか。聲の形のスタートラインである、硝子に救われた将也と同じく、将也に救われた命から変わる新生西宮硝子の始まりなのだろうか、とやはり期待を持ち たい。
それでも鷹岑が不思議と感じるのは、将硝は決してひとつになることはない、と言うことだ。心の青方変移という表現を当初から使っているが、硝子の自殺未遂 が不意の時空の歪みを生じて将硝がひとつになる……なんてことはない。尚依然として二人の間には天文学的数字で離れている訳であるし、またその永遠の近づ きが聲の形のひとつのコンセプトである事は核心的に思えるのだ。

さてこれは完全なる余談だが、今回はこうした痛苦な場面に見舞われながらも、植野のセクシーショットや、髪をアップにした硝子などビジュアル的にもさり気ないサービスカットが鏤められていたことは、いち漫画読者として楽しませて頂いたのである。


ガキなんて産むんじゃねーよ (植野直花)
幼児虐待をするくらいならガキなんて産むんじゃねーよ。今時世の人の子の親たちに対して言いたい言葉である。
このばばあ!! (仝)
うるせーこの! 俺の()に対してばばあとは何だこのクソガキ(あれ?)
友達だよ (佐原みよこ)
それまで憧れだった植野の弱さの片鱗を知った佐原だからこそ言える衷心である。
絶対ないわコイツって思われる… (植野)
そう思われることも絶対に無いだろう。
もう意味ないってわかったから (結絃)
結絃が示してきたメタファー。果たして最初から意味が無かったのか、或いは彼女が思う以上に硝子が進んでいたのか、評価は分かれるだろう。
オレはどうすればよかった? (仝)
確固たる答えのないヒューマンドラマだからこそ、深みがある。