惡の華・押見修造氏をリゼンブルさせる大今氏大器の片鱗

サイレント・モノローグ。吹き出し無き描写にて想いを伝える卓越技術

~読者に広義的な擬議を投げかけた「聲の形」、将硝最後の終結へ向けての第一歩

■西宮硝子編、サイレントモノローグ。そして、最後に石田将也が竟に目覚めた。

総合評価・技術評価★★★★★(+10)

橋上から始まった将硝の軌跡、筆致ひとつで辿る

約束の橋へ「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」、「ぼくは麻理のなか」など2010年代を代表する鬼才・押見修造の 「惡の華」が終結して、未だ余韻が冷めやらぬ昨今。鷹岑も高く評価した、「惡の華」の基幹を成すメインストーリーを収斂させた、最終回直前の第56回。夢 か現か。聲の形とは切り口が違うものの、やはり人心の本質に深く切り込んだ当該作の基本理念を表現した部分を示す核心を、台詞の無いサイレント構成という 非常に高度な手法を用いたという部分に、個人的に大今氏の飽くなき追究心を見るように思えた。
サイレント・モノローグは、「漫画」の尤も基本的な表現に準拠し、吹き出しによる言葉ではなく、キャラクタの表情のみでストーリーを伝える、無声映画を想 起させるという、基本中の基本ゆえに一番難しい技術であると、鷹岑は考えているわけで、キャラクタモノローグ篇のラストを飾る、硝子編にこの技術を用いた のは、意外性と言うよりもある意味大今氏らしい「挑戦」であると思ったのである。

サイレント・モノローグはその技術の高さもさることながら、描写の深意を読者に委ねるというある意味鷹岑のような「勝手に感想・考察」論者泣かせの回であるとも言える。
今回、硝子が“いつもの”橋の上に駆けてきた場面は感慨深いものがあり、鷹岑が想起するのは、惡の華の主人公・春日高男が、銚子市外川町でメインヒロイン である仲村佐和に最後の再会を果たす、という場面であり、そこについては拙いが当鷹岑家文書の惡の華考察をご参照願いたい。
サイレント・モノローグ
正直、将也不在の映画制作に一念発起する西宮硝子の至誠通天、しかれどもやはりぽっかりと空いた心の穴は、石田将也でなければ塞がらない。大事なものは何なのか。硝子にとって、そのたどり着いた先が彼であったというのは、納得出来る反面、実に大人しい無難な収斂である。
惡の華は、心裡に仲村佐和という「過去」を抱え、常磐文という「未来」を競合させながらサイレント・モノローグで、その生々しいリップカレントを再現できたが、聲の形メインヒロインの硝子のサイレント・モノローグは、ある意味「勝者の静寂」である。
この作品全体を通じて、やはり唯一、惡の華で喩える「常磐文」の立ち位置に植野直花を据えても、今話を重ねればどうも説得力に乏しい。
いや、それは決して批判などではなく、「将硝」の構図が何よりも「聲の形」そのものであるように思えて、惡の華のようにゴリゴリと精神を削り取るようなリアリティというよりも、デプレッションに近い感覚が強いからなのであろう。

惡の華はそのサイレント・モノローグによって物語の本質的な部分を表現されてきたのだとは思うのだが、それが果たして夢か幻かという視点で捉えたとき、ど うもそれまでの主張の自信に揺らぎを感じた、と言うのも否定出来ない事実であった訳で、それほどこの技術は作者のみぞ知る。と言う意味で手強いのである。

○硝子にとっての、将也の存在

筆談用ノート「筆談用ノート」は、聲の形を象徴するアイテムのひとつだが、ノートそのものと言うよりも、将也との再会というトークンであることに意義がある。硝子のそれまでの人生経験のログという点にも取れるわけではあるが。
惡の華にもキーアイテムというのは存在したわけで、それを廻って主人公とヒロインを取り巻く様々な環境に大きな変化をもたらした。まあ、聲の形はかの作品 のように主人公やヒロインの動静に劇的な変化や波瀾が発生するというような懸念は非常に少ないような気はするのだが、西宮硝子に特化した、表情の絶妙な変 化にそうした主人公に対する想いの強さというものを感じ取ることが出来るのが素晴らしい。
考えようによっては、このノートの表紙をコラージュしても良い訳で、シリアスな場面を滑稽に変化させることも自由のような気がする。それでも、西宮硝子が 石田将也に対する想いや、彼を通じたチーム永束の面々に対する思いというのは一貫しているので特段それが不愉快と感じてしまう懸念というのも少ないだろう (まあ、聲の形信者は別として)。

それにしても、硝子のサイレント・モノローグによって、主人公・石田将也は実によく映える。彼との出会いそのものが聲の形のヒロイン・硝子のキャラクタ設 定そのものになっているからこそなのだろうが、何気ないとは言え久しぶりに描かれた将也のビジュアルはやはり他のサポーティングアクターとは別格のキャラ クタであるというのを再認識出来るのである。

○試される演技力

涙の硝子サイレント・モノローグは、情景演出もさることながら、やはりキャラクタの表情の筆致に読者は心理描写を読み取るので、キャラクタ個々の「演技力」が物を言う。無声映画はまさにアクターの所作が物を言う。
漫画のキャラクタというのは美形が多いのは当たり前なので、彼らが夙に見せる表情の晴曇が作者の手腕の見せ所。言うなれば、サイレント・モノローグは漫画のキャラクタが、現実の俳優と同位にあると言っても決して過言ではあるまい。
惡の華のサイレント・モノローグは、背景描写の効果によって読者側に訴求性を高めたと言えるのだが、聲の形の場合は西宮硝子一本の演技に依ったと言うところで難易度は高くなっていた。
そもそも背景描写(特に小物に至るまで)が事細かくシャープに描くことが特徴的な大今氏の技術ならば比較的サイレント・モノローグを使いこなすことは想定 の範囲だったのかも知れないが、これまで描かれてきた将也に対する思いを総合してみれば、硝子は実に読者を惹き込む演技力の高さを裏付けることに成功した と言えるだろう。
筆致が精緻ならば、それでサイレント・モノローグは描くことは出来るのだが、作者の意図を表情や背景のみに頼ることになる訳だから、物語構成が卓越していなければ意味を成さなくなる。漫画の基本だからこそ、一番難しい。

硝子の許へ……石田将也、復活

将也、復活硝子の夢枕に立ち、永別を告げた将也。心の繋がりがあればこそ見せられた夢。主人公・将也が死亡するという超展開が懸念された訳だが、将也は竟に目覚める。
過去の柵や他者を峻別してきたこと、硝子のために命を懸けるなどと言った過剰とも言える捨身飼虎の精神。それらを乗り越えて奇跡的に復活した将也の様子 に、更に立ちはだかる植野直花という壁。スチュワーデス物語の新藤真理子(片平なぎさ)ばりに将也に取り憑いては目も当てられない。眠れる森の王子様にキ スをしたのは植野直花だったとしても、心の喚起が将也を目覚めさせたのだから、植野の面目は丸つぶれだろう。
将也を取る盗られるという視点で将硝を見ていた植野と、恋愛感情という枠から離れた、青方変移・宇宙規模の心の繋がりであった将硝。決してひとつになることはないが、永遠に近づき合う関係。
「相撲で負けて勝負に勝つ」と昔、誰かが言ったことがある。また大河ドラマ・太平記で楠木正成が言った「大切なもののために死することは、負けとは言わな いものである」という言葉。将硝は互いに一度は「死」ということを真剣に考えた。彼らが辿った道や思いというのは奇しくも同じなのである。一緒になれなく ても、そういう青方変移の関係で繋がり合っているとするならば、どのような肉体的接触がなくても、何よりも強い関係のような気がするのだ。



にひみやっ…! (石田将也)
覚醒第一声が硝子を呼ぶ声。悲しき哉植野。将也を害してはならない。