石田将也復活へ、将硝帰結への最後の関門

儚き希望と思い過ごしてきた将硝最後の結実へ

~月並に綺麗な終結を迎えるか、異例尽しの斬新な結末を迎えるかの分岐

■意識が戻った将也は、全身を纏う医療器具を強引に外し、病院を抜け出す。そして、駆けつけた橋の上では、将也を想い嗚咽する西宮硝子の姿。目の前に現れ た将也の姿に唖然となる硝子だったが、その身体が生身の将也である事、そして将也もそこにいた硝子の姿に互いに驚きと喜びに歓喜する。

総合評価★★★★★

将硝、互いを想う心の響震。その秀麗な情景に「物語」を見る

聲の形クリアファイル応 募者全員サービス(注文)とした聲の形クリアファイルが一斉に発送された。続々と手元に届いている発注者も多いことだろう。かくいう鷹岑の下にもそれは届 いたのだが、これを発注したときは、信者然とした考え方で聲の形を捉えていた時期であったことを考えると、先日家に届いていたものを見たときは、ああそう だったな。という印象が強かったのである。
まあ、聲の形は好きな漫画作品なので吝かではなく、いち読者の応援というそうした形のひとつとして残すというのも悪くはないだろう。
また、コミックナタリーが主催するコミックナタリー大賞に同作が選出され、大今氏がコメントを寄せている。

閑話休題。

終結を間近に控えて、聲の形は徐々にその現実的な描写から、物語的な描写へと変遷している。それはそれで構わないのだが、あまりにも完璧な相関図や心理描写に、不確実性が当たり前な現実社会と比較するとやや無機質な空気を感じてしまう。
健常・硝子まあ、そんなことを言えば例によって擬議を呈することそのものに反発をする信者層にフルボッコにされてしまうので控えるが、鷹岑としては当初ほどに来週を一日千秋の思いで待ち焦がれる、という感覚からは多少薄れてきた、というのも紛れもない事実である。

石田将也が昏睡状態となって数話未登場の各キャラクタモノローグが続いたのだが、一部の読者では、「単行本の収録がここからここまで云々」と言ったような テクニカルな分析に終始し、この作品が呈する本来の基本理念よりも物語上の技術論で盛り上がるところに少々冷めた心地もするのだが、まあ鷹岑はそう言う戯 論は歯牙にもかけないのでまあ、どうでも良い。
将也が夢見た健常者である硝子像。この筆致を見るとやはり妹・結絃とは姉妹なんだなと言うイメージが強い。似ているのだ。
しかし、夢や理想と現実の違いを見事に切り捨てて医療器具まみれの自らの状況を思い知らされることになる。

大今氏がこの場面で陳腐とも言うべき将硝の再会をさせたことにどういう意味があるのだろうと考えると、なかなか読めないものがある。管という管を掻き毟り 取り、涙を流して西宮を想う将也。自死を図った場面から止まっていることを思えば当たり前の行動なのかも知れないが、現実論からすれば、体力の落ちている 目覚めたばかりの経管患者がかように病室どころか、病院を脱走するというのはほぼ不可能なことである。
それを考えれば、聲の形はここに来て物語色をより強めたと言えるだろう。経管患者

まあ、将硝にとっては素晴らしい再会劇なのかも知れないが、脱走された病院からすれば大騒ぎになることは必定で、当直の看護師や病院警備にも責任が及ぶ事 態になりかねない。病衣を纏い、様々な液体を滴らせながらみすみす重症患者脱走などとあっては病院の威信に関わる事態であろう。まあ、野暮なことを言うな と言われそうなのだが、そこが「物語」なのである、ということなのだ。
聲の形も最初の頃は非常にリアリティに満ちあふれた構成技術に惹かれていたのだが、ここ最近はやはり非現実的な状況描写も加味されて「上質の物語」と化し ていった。そもそも漫画なのだからそれで良いのだろうが、鷹岑としては「聲の形」が示してきたコンセプトというものは何かという視点で捉えた場合に、単な る「上質な物語」で終わらせてはならないような気がするのである。
まあ、かような危惧を単行本のカスタマレビュー等でも提起しているのだが、聲の形・大今氏信者層にはどうも聞く耳を持たれないようで残念な話ではある。

想いを交わす、最後のチャンスか

将也を待つ硝子改 めて言う迄も無いのだけれど、さて諄く何度も言うが、西宮硝子は美少女である。漫画なのだから当たり前と言っちゃ当たり前で、これが現実的に硝子のような 美少女でなかったならば、読者や実際に対する人々もそれほど感情移入はしないだろう。人間所詮は見た目である。というのが鷹岑が提起する人間の本質なので ひねた見方で言えることなのだが、実は将也目線での硝子、また硝子目線での将也。互いが相乗して将硝を強く映えさせているという技術があるとするならば実 に大したものであろう。
こうした鷹岑の指摘に引っかかるというコメントもあるのだが、確かに互いの視点で描かれる主人公・メインヒロインが単純な王子・王女様然となっているという危惧は必ずしも否定出来ないだろう。
鷹岑はそこはかとなく押見修造氏の「惡の華」の技術をオーバーラップさせる部分を指摘したわけだが、聲の形は終結を予め決めており、またテクニカルな手法 を駆使し鋭利なほどの相関図や心理描写の完全性を求めているがゆえに、惡の華の春日高男や仲村佐和らと言った心の闇を表現することは却って出来にくい畑に なっていたのではないだろうかと思える。

先日、都会の方では視覚障碍者の女子高生の脚を蹴り転倒させたとされる卑劣な犯行があったが、その犯人は発達障害が見受けられる、いわゆる同じ「障碍者」であったと言われている。
鷹岑は「障碍者=天使」という考え方は真っ向からの否定論者なので、障碍者だから気を遣い、大切にしなければならないという機運に対してはまったく理解が出来ない。本物だ
それはともかくとして、確かに硝子が将也のことをどう思い、どうしたいのか。終盤になってそうしたリアリティさから物語然にアトモスフィアが変化していく 中で、硝子がただ将也の献身的な言行を受け止め、彼無しでは生きていけないと言うような様相を滲ませていることにはいささか首を捻るところがある。
西宮硝子は天使である。という表現もよく使われているのだが、この天使という言葉の意味をそのままとして捉えたときに、まさに言い得て妙な表現であると思うのである。彼女を天使と評した最初の人はまさに先見の明があると言えるだろう。

●綺麗すぎる心の通じ合い

将也が最終回に目覚めて、最後の最後に硝子と巡り会い、逆光線の中で何かを語る…と言ったようなラストならばグッときた。まあ、鷹岑個人が理想としていた ものだが、或いは将也の死亡を思えばこそ、硝子の夢の中で「じゃあな、西宮」と言った将也に涙腺崩壊だったわけで、まあ鷹岑が提議していた、天文学的数字 にかけ離れた将硝の心。という表現も事ここに至っては極めて覆される可能性も出てきた。
惡の華のように人間の俗悪的な部分を表現してきた作品とは違って、聲の形はやはり「障碍者」であるという作品の不文律を逸することは貫徹出来なかったのか という懸念もある。障碍者いじめという点については赤裸々に表現されていたものはあったのだが、人間・西宮硝子の心に蠢く悪しき感情が、確かに物語全体を 通じて明瞭化されてないというのが、鷹岑や非信者の冷静な視点から言わせればそう映るのである。
将硝帰結は既定路線なのかも知れないのだが、それぞれのキャラクタが抱える負の部分を強調されながら、硝子に至っては将也に対する想いの強さ、また将也の 硝子に対する想いの強さが響震して本質的な関係が非現実的な描写によってまやかされてしまったようにも思えてならないのである。
まあ、それはそれとして今回久しぶりに将硝は現実世界で再会したのだが、それがこの上ない素晴らしい再会であると褒めちぎる信者も居れば、あざといと批判 するアンチも居れば何か違和感があると仄めかす中立層もいる。そうした議論がある事自体が、良い作品たる所以であることには変わりがない。