絶望の厓、奈落の底。そこはもはや上がる しかない悟りの場所

聲の形・第6集▼聲の形  第6集
総合評価★★★★

第43回~第52回を収録し、巻末にはタレントの有村架純君と、大今良時氏の対談がテキストアップされている。コミックナタリーの年間大賞を受賞したとの 事で、今集はその余韻冷めやらぬ中での続刊刊行となっている。
“聲の形”のある意味大きな山場とも言える、主人公将也の一時退場がメインを占め、西宮硝子を中心とした主要キャラクタの内面を重視した極めてポイニャン トな描写が連続し、一度は感じたことのある“痛み”を間接的にも突くため、読者の胸を大いに締めつけてくる。

総合評価は満点であることに相違はない。但し、連載当初の大いなる魅力である、障碍者いじめというタブーを直接的に表現し、社会全体に一石を投じると言っ たようなある種の現実的なストーリーから、次第に理想的な『物語』としての色彩が強くなっているのが特徴的で、カヴァーから見てとれるように、主人公が前 後を除き不在という、極めて異例の単行本の中にあって、その大今氏の高い構成クオリティと、テクニカルな技術が目立ち、それが却って当初に感じていた『現 実感』の乖離に繋がっているという皮肉な面も見て取れるのである。

将硝以外の主要キャラクタにスポットが当てられた准オムニバスの形態の中で読み返すと、大人を含めたそれぞれが人間らしい未熟さをモノローグの中や表情の 変化で再現されているのだが、逆の言い方をすると、いわゆる人や社会風潮の「悪役」というのが存在せず、或いは悪役だった存在が霧消され、物語全体として 極めて理想論的・パシフィズムの色彩が随所に滲んでいるような感覚を覚えるのである。
西宮硝子と植野直花の直接対決なども今集の見所ではあるのだが、対比する二人の心理描写などを反芻しても、決定的な対立の素因や、それぞれの醜悪な部分に 踏み込んだキャラクタの深奥を描ききっている、という核心にやや懐疑的な部分があるのである。
結局、そうした現実的から「理想的」なシフトが両者を例にした決定的な対立に至ることはなく、主人公石田将也の復帰に到ることによる収斂によって、物語と しては切なさから安堵という、読者的には安心感を与える一方で、本来の基本理念として、そうした当初の本質との比較が侃諤の議論の発露となっているのだろ う。
故に、今集も★評価としては4。総合評価は繰り返すが、★は10を付けても良いと思っている。

存在せぬ“悪役”、心に響くのはやはり平和理想主義なのか

連載終了も秒読み段階に入り、2014年の漫画史上に名を刻んだ聲の形。胸を締めつけるような展開が続く一方で、連載当初からのワクワク感というか、駆り 立てるような来週への期待、単行本の待ち遠しさというのが少し小さくなってきているというのも正直な感想だ。
酷な言い方をするようだが、石田将也がこの巻末で死亡退場する、と言うような衝撃的な展開を見ていたら、と思うと、この作品はまた違った意味でソーシャル プロブレムのひとつになっていたのかも知れない。まあ、大今良時氏は荻上チキ氏との対談の中で「(社会的)問題作だという指摘にピンと来ない」と曰ってい るので、「物語」として聲の形を収斂させたいという舵を切ったという考え方があったとするならば、それはそれで理解出来るのである。

■大今良時・聲の形の信者と、非信者の構図

鷹岑家文書の考察記事や、アマゾンのカスタマレビューでも言っているように、この作品には人間であれ、社会そのものであれ、主人公や各キャラクタに感情移 入した際に力点となるべき「悪役」がいない。或いはそう思っていた存在が霧散してしまったのである。
勧善懲悪という概念が必然的要素というわけでは必ずしも無いのだが、「障碍者に対するいじめ」をコンセプトとしているのだから、「加害者側=悪」という固 定概念から穿った捉え方をしていても、聴覚障碍者・西宮硝子は何故いじめられたのか。そこから端緒されている石田将也への虐遇とその延長線上にある昨今 と、その元素追窮を憚っていると感じられなくもない部分に、この作品や大今良時氏のある種の限界のようなものを感じさせるのである。
鷹岑はどのような“作品”や“作家”であれ、それに対するいわゆる極めて強い支持者「信者」は殊の外忌諱しているので、良く言う「聖地巡礼(そう言う言葉 を用いること自体が信者である)」と言われる「御当地廻り」という事をするまでには到らない。
大今氏は地元・岐阜県大垣市に於いて名誉賞の類いを受賞したとされるが、こう言った賞は一般の読者に依らず、そうした信者の篤い信仰によって成り立ってい ることを考えれば、またこの作品も違った色で見ることが出来るのかも知れない。

鷹岑がアマゾンのカスタマレビューを寄稿したときは、既に25件のカスタマレビューが投稿されている様子だったが(そのひとつひとつは見ていない)、星評 価も分散しているようだった。少なくても、聲の形がそう言う現実的表現から、理想的な物語への推移に対して少なからず疑問を感じている読者がいると言う事 の表れなのかも知れないし、或いは単純に信者と非信者・アンチ層の棲み分けである、と言うことなのかも知れない。
鷹岑は非信者ではあるが、前中盤にかけては本当に素晴らしい技術を以て絶賛していた手前、やはり5段階の星評価を5以下に落とすことは如何しても出来ない のである。そこが非常に忸怩たる思いなのだが、アマゾンのカスタマレビューにおいては、総論を均して星評価4としているのである。

■パシフィズムの色相

今集は石田将也が殆ど登場しないという、極めて異例の内容(全10集未満の中では)と言うことで、物語相関図の奥行きを垣間見る契機となった。
硝子を中心として、川井や真柴などの読者の一般的感情からすれば、一線を画すようなキャラクタの内面や経歴なども掘り下げた准オムニバスの中にあって、そ れぞれのキャラのいわゆるダークな部分も悉に垣間見ながら、それでもやはり嫌悪感を懐き、突き放したくなるような悪党にはなりきれないのである。つまり、 多彩な読者にとって、誰であろうとひとつの要素に共感出来る糊代を用意することによって、物語上から完全なる悪役要素というのが無くなってしまうのであ る。
そうなると、全体的には社会主義とは言わずとも、平和至上主義により近い、左派的な感覚が多くの読者に対する訴求力となるのだ。人間というのはそういう現 実的な社会生活の中で、進んで自らが一人悪役になろうとは思わないものである。だとするならば、共鳴出来るキャラクタが悪役であってはならず、またそう言 う社会性も悪であっては何かと都合が付かない。
本来、西宮硝子を発端として、石田将也や植野直花らが悪役であったはずの作品を、そう言う路線で行く(悪役が主役)事がなかったために、結局全体的にパシ フィズムの方向性に緩斜してゆくというのは当然の流れであったと言えるのかも知れない。
「障碍者である西宮硝子を悪役に据える」というのはやはりどう考えても相当な無理があるからだ。

■石田将也復活

石田将也は死なない。さしもの大今氏も主人公を死亡させるという荒技を駆使して“聲の形”の完結を目指すということはしないだろうと思っていたが、万が一という可能性も秘めつつ、将也の生還を思えば、途端に今集は随分と足踏みをしているという印象は否めないところである。
硝子の自殺未遂を食い止めようと巻き添えを喰らい、巻末で復活をしてもなお硝子を想いつづけられる石田将也。少しくらいは怒っても良いだろう、とさえ思うのだが、そんな捨身の行動さえ、「物語」としてのある種の感動的な要素であるのだ。

いじめを赦せない、という立場からみた真柴智でさえ将也を理解している描写もあるが、現実の読者の中では硝子をいじめた将也やその周辺に対して筆舌に尽く しがたいほどの憎しみを持って見ている人もいるだろうが、いずれにしても、聲の形は物語である。紆余曲折を経ても、物語はやはり大団円を以て閉まるのが理 想的なのである。
全ての読者の溜飲を下げるのは物理的に不可能なので、そこのところはある程度割り切らないと、いけないのかなと改めて思った次第だ。