-ドアを開けるのは怖いけど、探していた場所かも知れない-

聲 の形、有終の途上にて閉幕。永久に近づき合う心のあとさき、扉の彼方へ紡ぐ

~石田将也・西宮硝子。出逢った瞬間を〝縁〟と成し、心の主柱として虚飾と絶望を乗 り切った、十代の青春譜

■2年が過ぎ、晴れなる成人式。チーム永束のメンバー達はそれぞれの夢を叶え、また追い続ける。そして、小学時代の同級生達が集うホールの扉の前で、将也 の短いモノローグ。そして、傍らの硝子の手をしっかりと握りしめ、扉を開くのだった。

最終話アトモスフィア・イメージ それでいいよ中 西保志

最終話「石田将也×西宮硝子」ホープス・イメージソング イエスタデイ ズ~大切な贈りもの~榎本くるみ

大今良時氏、冲方丁氏の薫陶を得て天賦の才を遺憾なく発揮し、幽遠痛切なヒューマンドラマ を走破する

☆最終回総括~将硝のその後

2010年代前期の漫画界五指に入る話題作「聲の形」が、62話を一期としてその幽遠なヒューマンドラマに終止符を打った。まずは作者大今良時氏に感謝と 労いの言葉を贈りたいと思う。
障碍者に対するいじめから端を発し、そのいじめの首魁がまた痛ましいいじめを受けて痛悔の十代を過ごすというコンセプトから、読切り当時から強く注目して きた作品が、1年強の連載を経て完遂したのは支持してきた端くれの一人として嬉しく思う。
last sceneまあ、本来ならば瀬尾公治の「君のいる町」の連載終了と同時に週刊少年マガジン の購読も終了する予定だったのだが、当該 作の連載開始によって事実上延期となっていた。今回の当該作最終回を以て、君のいる町・第120話前後から再開していた週マガ約5年間の購読を終了した い。まあ、この5年の間にはそれなりに様々な他作家の作品にも触れることが出来たのだが、粗方良い区切りだと思っている。

閑話休題

結論から先に言おう。聲の形全62話の終幕は、将也が硝子の手をしっかりと握りしめ、小学校同窓会のホールの扉を開く場面だった。鷹岑としてはそれで良 かったと、正直思う訳で、聲の形を非ラブコメという基点に置いた見方をしていた手前、このラスト・シーンは映画やドラマなどのフェイドアウトしてゆく終幕 を彷彿とさせて締めは良かったと言える。
そしてなお、ダイレクトに将也と硝子が結ばれた、という表現を用いず、それぞれの進路を暈かしたところに、硝子派と植野派双方の顔を立てる効果もあったと 言えよう。
まあ、硝子は進路をまだ決めていない。とママ宮が言うように、果たして将也の店で働くのか、別の進路を取るのかを暈かした。植野・佐原が独自ファッション ブランドを立ち上げてアメリカンドリームを達成していることに較べて、将硝はやや暢気のようにも見える。或いは既に進路は定まっている故の余裕の表れなの かも知れないが。

◆蝉の儚さと、心の青方変移

石田将也と西宮硝子は果たして一緒になったのだろうか。仮にそうだとして果たして将也や硝子は倖せになれたのだろうか。という心配が残る。
それはおそらく、聲の形のファン達が望むだろうアフターストーリー的な意味合いになるだろうが、大今良時氏は仮にこの作品の後日譚を考案するにしても、将 硝がイニシエーションを経て生涯の伴侶となる。と言うような描写をするとは思えない。硝子の進路
聲の形を構想期間を含めて〝蝉〟と喩えた大今氏が、その僅か数年越しの構想を具現化した事で、儚さの代名詞である蝉をして松尾芭蕉の俳句宜しく過去を想起 することの美化、というのは語弊があるが、ここで将也と硝子が生涯の伴侶として描かれてしまっては、途端に陳腐になる。結婚というイニシエーションは、万 物に共通する、人生の画期である。そこを描いてしまっては、聲の形は「蝉」ではなくなってしまうのだ。

まあ、聲の形は障碍者に対する虐遇という衝撃的内容から端を発しつつも、物語の底流にあったメインコンセプトは、耳の聞こえない少女を廻る、石田将也とい うやんちゃな少年のひとつのクロニクルだったと言うことだ。
それを考えれば、鷹岑が終始提唱した、永遠に惹かれ合うが決してひとつになることはない、という心の青方変移はそうした大今氏が喩えた蝉という物語に繋が るひとつの要素であるように自画自賛してならない。結果として、物語本編では、将硝はやはり、近くて一番遠い存在に変わりは無かったのである。

◆二次創作小説の余地

まあ、鷹岑も何だかんだと言ってショートストーリーを書く書くと言ってきたやるやる詐欺をしてしまったわけだが、この最終回はそうした聲の形の創作系支持者にとっては、派生創作の糊代が非常に大きい結末であったと言えよう。
何よりも、先述したように将硝の物理的帰結ではない硝子派・植野派にとっては、いかようにも受け取れる後日譚の作成が可能になったことは、特段後者にとっては唯一の救いであったように思えてならない。集合写真
まあ、ドラゴンクエストのヨメ論争たるビアンカ・フローラの左右両派の対立、ファイナルファンタジーの有名なティファ・エアリスの両派対立など、物語上の 対極両輪のヒロイン像というのは何時いかなる時代も、永遠のテーマとなってコンクルージョンの至難さが顕わになると言える。
しかし、聲の形は結果として西宮硝子と植野直花、若しくはインタビュー記事に記されたように大今氏自身が動かしていた佐原や川井と言った、ビジュアル的に 美少女が活躍し、男性主人公が物語の枢軸であるという以上、作者の意図に拘わらず恋愛色の滲出は避けては通れないものである。作者がそうではないと言って も、読者側がそう捉えられれば、そうなのである。

石田将也が主人公であって、彼を想いつづけていた美少女二人。すなわち先手から植野直花と西宮硝子。現実的に考えれば、これだけで将也は十二分にリア充の 仲間であると言える。だからこそ、鷹岑はそう言うラブコメという観点から物語を捉えたくはなかったのだが、いやはや如何しても硝子や植野の魅力、果てには 川井に到るまで(勿論本命は石田ママだが)キャラクタに惹かれてしまってそうなってしまうと言う修行不足が身に染みた1年有余であったと言える。
それでも、この最終回の先に想像される物語で、将也が植野と結ばれる。なんて言うショートストーリーを描くとすれば、構成の中で植野が勝手に動いたとされる大今氏ではないが、鷹岑の中では硝子の『黒さ』が前面に出て植野を謀殺してしまうかも知れない。
まあ、いつか機会があったら、こっそりとそう言う二次小説を書いてみるのも、或いは楽しいのかも知れないが。

◆それぞれの道へ

西宮硝子最終話は、真柴・永束・佐原・植野・川井・結絃の順に、フェイドアウトしていった。劇中では成人式のあとでそれぞれの旧友達と再会してゆく場面だが、将也と硝子を繋いだ、聲の形という物語そのものの画期たる舞台袖だった、彼ららしい締め方だっただろう。
そう思えば、聲の形は全体のエフェクトを考証すればサイレントミュージカルとでも言うのだろうか、物語のコンセプトもある意味勇壮たるものではあったが、 改めて全体を俯瞰をしてみれば、我が精神中に広がる大きな舞台に繰り広げられた、過去の自分自身そのものが並ぶ観客席から見た演劇だったようにも思えた。
個人的に、あのラスト・シーンで将也と硝子が扉を開いた先には、聲の形の読者達が居並ぶ観客席があって、主演の将也・硝子、そして植野・永束、果ては最後 にワンカットだけ出た広瀬までもが一列に手を繋ぎ、スタンディング・オヴェーションを受けている、と言った妄想が過ぎるという、鷹岑であった。
●冲方サロンと聲の形
まあ、考えてみれば聲の形は大今氏が冲方サロンのインフルエンスを受けたマルドゥック・スクランブルの系譜を受け継いで「西宮硝子の死亡」ということを考えていたことには至極納得は出来る。
鷹岑がマンガボックスで復刻掲載され始めたマルドゥック・スクランブルを読み、単行本自体を読み進めてみたが、確かに大今氏は冲方丁氏の薫陶を受けた作風を見受けられてきた。
マルドゥック・スクランブルに記載された冲方氏の寄稿と並行した聲の形の構想は、大今氏自身の発想もさることながら、やはり冲方氏の原作と世界観に中てら れた、強い冲方ワールドへのインスピレーションがあると考える。シュヴァリエや蒼穹のファフナーなどのメディアミックス作品をつらつら惟みるに、そうした 主人公やヒロインのどうしようもない時の潮流への反抗と諦念、それでも自分が必要とされている事への一縷の希望と勇気という、不思議で理解至難な世界で あっても何故か惹き込まれてしまうような情景に対する、大今氏なりの追窮が感じられたというのはあながち間違ってはいないと思っている。
ただ、「西宮硝子を死亡」すなわちメインヒロインの死亡という展開は、大今氏のインタビューを咀嚼すれば相当ハードルは高かったと言えるのかもしれない。 それを考えると、今にして思えば石田将也をあの場面で死亡退場させていれば、聲の形はまた違った印象のまま、終幕を迎えていたのかも知れない。

ともかく大今氏はその天賦の才を発揮して聲の形を完走させたが、その背景にはマルドゥック・スクランブルで篤い保護を受けた冲方サロンの力があったという のは紛れもない事実であり、今の週刊少年マガジンには異例なタイプの作風が奏功したというのもまた、事実であると思うのである。

◆聲の形の〝批判〟と将也・硝子の運命の岐路

夏祭奠の花火大会というのは、鷹岑の触れた直近の作品の中では大事件が起こりやすいイベントである。押見修造氏の惡の華・第一部クライマックスしかりだ。聲の形では、その夏祭奠が将硝の運命を大きく変え、物語の最高のクライマックスになることを期待したわけである。
まあ、最終回なので事細かいことは今更言う迄も無いのだが、大今氏の言った硝子の死、主人公の死に対する辛苦と言う点について、改めて物語的には二人とも 生きていてかつ幸せへのスタートラインに立つことが出来るのかなと言うラストシーンに、溜飲を下げる思いではあったのだが、やはりこの場面がやや鷹岑の中 では擬議を生じる契機になったことは否めず、この大今氏のインタビュー記事を見てそう思ったのである。
大今氏は敢えて(硝子ではなくて良い)将也を死なせてみるという、辛い現実を物語や読者に投じてみれば良かったのではないかという、ひとつの考え方が必ず しも間違いではないという事であったわけで、大今氏はそうした自問自答の中で7年間温めてきた構想の実現を図っても良かったような、余計なお世話を考えた くもなるのである。
鷹岑は、硝子にしろ将也にしろ、どちらかが永別の展開があったとしても、必ずしも悲しい幕切れになるとは思えなかった。聲の形ならば、将硝いずれもその痛切な現実を乗り越えて行ける気丈さが備わっていると、感じていたからである。
考察でも言っていたが、将也は自分の将来に絶望のシミュレートをした(第5話)場面で、どんなことでも、自分の未来を予見できる時点でその人は大丈夫である。死を考え、また決意できる人は、そう言う未来をも視ることが出来ずにただ死に囚われるものである。

最終回の将也のモノローグで、彼は「自分の未来はつまらないものだと想像していたが、今は輝いて見える。厭き厭きするほど真っ当で希望に満ちている」と 言ったが、自分自身をつまらないものだと考えられることこそが、生きる糧なのである。鷹岑が言っていたことと通じるものがあるだろう。

◆有終の途上、聲の形よ永遠に…

あなたと、共に聲 の形は終わった。しかしながら、物語の中の石田将也と西宮硝子はこれからも「聲の形」という世界の中で息衝いている。大今氏はインタビュー記事の中で言っ ていて、鷹岑も昔から主張している事であるが、創作物というのは作者が創世神であり、またどんな作品でも、一度生みだされたキャラクタというのは、命が与 えられた掛け替えのない存在なのである。鷹岑は故に、生み出されたキャラクタを大切にするべきであると主張している。
大今氏はキャラクタを〝嫌い〟として聲の形を終結させたが、それはこの物語の独り立ちを意味していると考えて止まない。
有終の美を飾る。という表現ではなく、敢えて有終の途上という表現を用いたのは将硝の待ち受ける運命はまだまだ険しい事を意味し、心の青方変移は未来永劫続く。何だかんだと将也を諦められない植野直花のアタックももしかしたら続くかも知れないのである。

物語本編、大今良時氏著作としての「聲の形」は終結したが、彼らは大今氏の手を離れて新たな物語を始めたのだと思う。もしかすれば、別なタイトルとして何 処かに姿を変えて見えるのかも知れない。この作品に限らず、此の世にある全ての物語は、皆その世界で息衝いているのである。
将也に勢いで「ちゅき(好き)」と言った硝子。その言葉は勢いではなく本心であっただろう。それを「月」と聞き間違えた将也も本心であろう。
昏睡の将也を独占しようとした植野の想いも紛れもない本気だったことを慮れば、何々これから先、いかようにもこの世界は繋がってゆく。永遠にひとつになることはない、それは『永遠に惹かれ合う』という素晴らしい関係でもあるのだ。

全62話。色々と言いたいことを独白で書き殴ってきたが、こうして終わることが出来て大変良かった。感想・考察を何だかんだと完走させることが出来て良かったと思う。

週刊少年マガジン、約5年間の購読に終止符~君のいる町から聲の形まで

小林尽氏のSchool Rumbleを追って買い続けてきたマガジンを2003年で購読終了し、しばらくマガジンを買うことはなかったが、2009年頃か。
当時瀬尾公治氏のファンでもあったために単行本ベースで買っていた君のいる町の個人レビューが酷評されていたことを端緒に、再びマガジンの購読に着手。君のいる町の第120話前後。当ブログ・鷹岑家文書の永い戦いの始まりでもありました(笑)
君のいる町の考察もさることながら、同時に流石景氏のGE~グッドエンディング~や、落合ヒロカズ氏のハッピープロジェクトなど、複数のラブコメディを焦 点に感想考察を繰り広げるなど、今から思えば一銭にもならない駄文を良く飽きずに続けられてきたものだなと言う、まずは自分自身にご苦労さんと言いたいと ころである。

君のいる町に関しては鷹岑としてもアナログの投書で編集部に意見したり、作者瀬尾氏のツイッターに直諫してブロックをされるなど様々なことがあった。語るにキリが無いので当文書の過去ログをご参照あれ(笑)

今回の約5年に及ぶマガジン購読、そして考察感想の中で、様々な造語も生まれた。

君のいる町の主人公・桐島青大には「至誠忠義」。誠に到って忠節を尽くす。ヒロイン・枝葉柚希しか目に入らず、彼女のためならばどんなことも、死をも厭わない。
ハッピープロジェクトの主人公・宮野宗太には「誠温行意」。誠意をたずねて、意志を行う。自分の信じることをおさらいして、その意志を実行する。
GE~グッドエンディング~の主人公・内海聖志には「優遊敦厚」。優柔不断なのに誠意に篤い。

そう言えば、聲の形にはそう言う造語は生まれなかった気がする。ラブコメでもないから、斯く在りなのかも知れない。

◆連載作品の切り売りと、作者の自由競争が実現する日まで

この号で鷹岑の週刊少年マガジンは読み終える。余程鷹岑の琴線に触れる作品が出てこない限り、おそらく紙媒体としての本誌を買うことはもう無いだろう。

今後はWEB漫画などのネット媒体で、草の根の漫画家の応援や、赤松健が主催する絶版漫画図書館など、懐かしい名作の温故知新に勤しみ、単発の注目作のレビューや考察を静かに行うことになるだろう。
鷹岑はツイッターでも主張しているように、紙媒体の週刊漫画誌そのものに、毎週約300円近くも払う時代はもう旧いと思っている。
読む作品がひとつやふたつしか無いのに、その雑誌全体にお金を払うくらいならば、同じ300円を、本当に読みたい、本当に面白い作品や作家にダイレクトに 毎週払っても良いと考えているのである。読んでもいない作品、面白くもない作品にまでお金を払いたいとは思わないのである。
ゆえに、本来ならば聲の形も個別リアルタイムで読めるとするならば、大今良時氏に対して毎週260円を払って読みたかったくらいだ。

大手漫画出版社として、連載の切り売り、そして漫画家の自由競争が実現するその日がいつか来ることを願いつつ、ここに毎週考察記事の終了と致します。

足掛け5年以上に亘ってお付き合いして下さった諸卿に、篤く、篤く御礼申し上げます。