聲の形・第62回(本誌最終話)のコメントに対する返信記事です。
原文、殆どそのまま抽出(適宜句読点付加)にて失礼致します。無名大夫は当ブログ共通の無記名共用なので、当該では「石田将成」と仮名を付けさせて頂きま す。
長くなりましたので、こちらの方に書きます(文字数制限のため分けますね)
主に「聲の形」記事でお世話になっている石田将成です。
 「聲の形」本編の感想を述べるんですが、僕もこの漫画をラブコメとしては捉えたくないと言ってはいたものの、 キャラクターに惹かれてしまい、そうなってしまうという計略からは逃れられなかったかな? と、思います。

そして、そのラブコメ面ですが、僕としては直将の結実をどうしても見たかったし、その方が美しい幕引きになっていたと今でも考えています。
理由が3つあります。

1つ目
今までにコメントした通り、僕は親植野派で、このキャラクターの不器用な一途さに惚れ込んで、登場人物の中でも特に感情移入して読んでいました。
そして、見ていて微笑ましかったのも、凹凸がピタリとハマるように感じたのも、直将の関係の方でした。
鷹岑さんは、記事でビアンカ・フローラと、ティファ・エアリスを例に挙げていましたけど、それってどっちも、主人公と結ばれるのは植野側で終結してる話で すよね?w
ビアンカは厳密には違いますけど(フローラ派の鷹岑さんには申し訳ないですが)、世間的には主流といって良いはずです。
でも、これ自体はまったく好みの話であって、硝将派は逆のベクトルで同じことを考えていたことでしょう。

問題は2つ目です
作品の構造として、大今氏は登場人物を正義と悪には分けないというスタンスを取られていました。
実際違う立場でのそれぞれの正義を上手く表現しており、一面的ではない良い作品になったと思います。
しかし、その公約(?)は完璧に果たされたでしょうか? 僕はそうは思わないんですね
恋愛色を持たせつつも、ライバル不在だった川井─真柴ラインとは違い、ゼロサムゲームである以上は三角関係には勝者と敗者が生まれます。
そして、読者の印象としては、やはり勝った方が正義なのです。硝子と植野を勝者と敗者に分ける事は絶対にしてはいけない。
なぜなら、作中でどちらか一方の数々の言い分も、まとめて否定されてしまう気がするからです。
鷹岑さんは、硝子派と植野派双方の顔を立てるラストだったと仰っていましたが、印象としはだいぶ硝子寄りな終わり方だったかと思います。
ならば、大今氏は対象的な位置づけだった硝子側を正義、植野側を悪として描いていたのか・・・といえば決してそんなつもりはなかったはずで。

では、読者にそういった印象を与えることを避けるためにどうすべきだったかというと、 「勝負に勝つ方と試合に勝つ方とを分ける」、これでしょう。
これが、ゼロサムゲームの決着を誤魔化す唯一の手法であり、「双方の顔を立てる」という意味ではこれしかなかったと考えます。
そして、これは「聲の形」が逆にラブコメではないがゆえに許される手法でもありました。
幾度か例に挙げてきた「僕らの変拍子」や、「羊のうた」がまさにこの手法を取っていて、もし冬目景がこの漫画の結末を描くなら、最後のページの最後のコマ は100%直将の二人によるものだったと確信します。
鷹岑さんが総括記事で語っていた通り、大今良時氏がこの作品の後日譚を描くとしても、おそらく将硝が伴侶となるといった描写はしないことでしょう。
ならば、 ならば植野でいいじゃないかと思うのですよ。
どうみても、作中で勝負に負けていた(という印象が強かった)のは植野の方なのですから、だったら最後に試合にだけは勝たせてくれよとw

3つ目なんですが、記事を読んでいたかぎりでは鷹岑さんも肩透かしを喰らっていた印象を受けます。
鷹岑さんが終盤で仰っていた、「現実性」の植野直花と、「物語性」の西宮硝子という表現は、僕としてもすごくしっくり受け取れて、西宮硝子というキャラク ターは、まさにその通り『黒さ』が全く前面に出てこない女性であって、その存在は常に物語性を帯びていました。

冲方氏の薫陶を受けていないと書いたのもそのあたりの指摘で、端的に言えばバロットほどの人間味を感じなかった。
将也が硝子に心を奪われるのもある意味当然の話で、「そりゃ~こんな女が現実にいたら、将也じゃなくてもコロっといくわな」と感じるキャラクターでした。
それゆえに、甚だ疑問なんですよ。
主人公の着地点が、硝子と共にある必要はなかったのではないか、という疑問が拭えない
なぜなら、主人公が物語が終わった後に手にしている救いとは、現実的なものでなければならないという考えがあるからです。
そうでなくては、読んでいる読者が救いを得られないのです。
「物語」がそう都合良く転がってはいないのがこの現実世界なのですから、 無論、石田が手にした救いは、本質的には内面的な成長であり、それがこの作品の主題でもありました。
しかし、その成長を硝子という「物語」からの卒業までをしっかりと見せた上で描いてほしかった。
西宮硝子というキャラクターは、物語が終わると同時に、はっきりと主人公の前を去るべき存在ではなかったでしょうか。
硝子に植野の半分ほどの人間味と深みを感じれば、また違った印象になっていたかもしれませんが・・・。
西宮硝子は、大今氏としてもおそらく扱いが難しいキャラだったんでしょう。
メインヒロインとしてのテンプレートを蹈襲しつつも、作者の考える人間性をどこまでデフォルメして落とし込むか、さぞ頭を悩ませた事と思います。
しかし結局は、言ってしまうと「読者に媚びる方」を選び取りすぎたように見受けます。
よって、生身の人間が持つようなリアリティは最後まで感じ取れず、とにかく西宮ってキャラのハリボテ感ったらなかったですよ。

さてまとめるんですけど、僕がこの漫画の総評を書くと「いい作品だった、西宮硝子のキャラクターとその処理を除けば」となってしまいます。

残念ながら、諸手を挙げて賞賛するわけにはまいりません。しかし、それ以外は本当に素晴らしい作品だった。
インタビューによると、氏はこの内容を18歳の時に思い付いたようですね・・・そして25歳で描き上げたと。
凄い才能だと思います、そして若いパワーに満ちた作品でした。
次回作はSFとのことで、そこでは「聲の形」とは違った意味での冲方丁の系譜というものが見れるのかもしれません、期待して待とうと思います。
では、長々と失礼致しました。
2014年11月30日 無名大夫(石田将成)氏 寄稿メッセージ、ほぼ原文。

ラブコメ・非ラブコメの緩衝地帯に左顧右眄し続けた硝子・直花の存在意義

聲の形考察に関し、後半頻繁にコメントを頂き、誠に有難うございました。せっかくの名考察なので、引用しつつ返信記事とさせて頂きます。
西宮硝子◀西宮  硝子

聲の形のメインヒロインで、その基礎理念を成すキャラクタ。耳の聞こえない、いわゆる聾者という設定で登場し、小学時代にそれが要因でイジメを受ける。主 人公・石田将也とはその時からの深い因縁で結ばれていて、彼のその後の人生に大きな影響を与えることになった。
漫画の世界だから、メインヒロインが美少女に描かれるというのは至極当然のことだが、性格や内面の行動なども然りとしてやはり、その〝見た目〟が硝子に感 情移入をさせ、聲の形全体の厚い支持基盤の源泉となったことは否定できない事実ではあるように思える。
大今良時氏が本気でこのようなテーマコンセプトを貫徹させるつもりならば、敢えてヒロインを美少女に描く必要性も無かったわけで、賛否両論の明白なテーマ に於いて、読者の心を掴むアドバンテージを与えうると言う意味では、まさに理想に適ったキャラクタデザインだったと言えるだろう。
最終回では、主人公・将也にしっかりと手を握られて赤面する、という表情を見せてフェイドアウトした。
キャラクタに惹かれるというのは漫画にとっては非常に大事なことで、それがその作品の基礎であるテーマを滲透させる最大の基本である事は言うまでもありま せん。
まあ、ラブコメであるのか、ラブコメではないのか。という発議が生まれること、また考えさせられること自体に、その作品は「恋愛」要素が秘められていると 言うことでもある訳です。

つまり、聾者でいじめられてきたメインヒロイン・西宮硝子や、その対極に位置するヒロイン格・植野直花。二人とも件のように〝美少女〟に描く必要も無いわ けで、美少女だからこそ、読者は相乗効果でどちらか一方に肩入れがしやすく、また侃諤の議論に持ち込むことが容易いのだと考えます。
仮に、硝子や直花。どちらかが『美少女ではない』ように描かれたとしたら、現有の硝子・直花両派はまた違っていた可能性はありますよね。ブスとは言わなく ても、モブキャラ張りのキャラデザだったとしたら、心象はかなり異になるはずです。

硝子にしろ直花にしろ、二人が抱く対極の存在価値というのはそうしたラブコメなのかという可否が無ければ、単にドロドロとした暗鬱とした物語に終始して 「つまらない」の烙印を押されたのではないでしょうか。
硝子は美少女で、耳の聞こえない、かつ「弱さ」に勝る健気な面をもっていた。〝見た目〟がその大原則にあると言えるでしょう。

植野直花も然りで、彼女の立位置も見た目の「美少女」ぶりが相当のアドバンテージを与えていると言えます。仮に直花がブサイクで本編のような抜群のスタイ ルではなかったとするならば、また別のイメージがあったと言えなくもありません。
そもそもこの聲の形そのもののコンセプトを考慮した場合、硝子にしろ直花にしろ、石田将也という少年が主人公だからと言って、擬似三角関係を醸成する美少 女にする必要性も無かったわけですが、当該の対照的な美少女(双方、将也に想いを寄せる)という基線をして、ラブコメなのかも知れないという緩衝地帯に聲 の形を位置させることによって、読者の感情移入をより強める効果があったことは言うまででもありませんね。

将也×直花帰結の真実性

石田将成さんの指向してきた将也と直花の帰結ですが、現実的ではありましたが、この作品のボーダーとしては、やはり高度な選択肢だったのではないかと考え ます。 鷹岑は考察記事から示していたように、当初は直花がここまで物語の枢要を占めるキャラクタだとは考えもしませんでした。つまり、高校編に至って直花に限ら ず、全キャストがそれぞれ曰くがありながらも、実質は悪いキャラクタではなかった。という設定そのものに定着するものとは考えもしなかったからです。
直花が終始、悪役に徹することによって、ある意味主人公との掛け合い。ラブコメとしての視線という見方からしても最終盤に至って硝子ではなく直花に収斂す る、という説得性はあったのでしょうが、それでも聲の形というオーバーオール・テンデンシー(全話的傾向)からすれば、植野直花はやはり西宮硝子に対して 主人公と帰結するという意味では、話数として相当無理がありました。残念ながら、メインヒロイン格としても当初から彼女の活躍の場は硝子よりも一歩遅れて いたと言えるでしょう。
大今氏は瀬尾氏並みにダラダラと意味の無い 場面を描くことを嫌っていたとしているのですが、将也と直花が帰結するというプリンシプルに舵を切ると言うことならば、大今氏が言う10集程度の話数が最 低限必要だったと言えます。
少なくても、西宮硝子がくだんのように物語性の強い絵に描いたような美少女ヒロインだっただけあって、現実性にシフトを置く直花の立場はどうしても弱くな ります。硝子を何故虐遇したのか、将也をどうして小学校後半から中学時代も含めて事実上放置していたのか。本編最終盤の訣別場面の心情吐露では到底納得で きるものではありませんでした。
昏睡状態の将也に激しい想いをぶつけるほどに恋焦がれていたとしても、やはり彼女に与えられた時間というのが相当に少なかったはずで、大今氏としても直花 は当初から将也との帰結を考慮していたという風には考えられないと思うし、またそう確信できてしまうほど彼女に対する扱いはそこはかとなくドライな感じは 否めませんでした。
つまり、植野直花は西宮硝子を虐遇し、石田将也を紆余曲折を経ながらも結果として見殺しにした、という負い目を与え、それに内心辛苦するという枷を嵌めさ せることによって、聲の形の非ラブコメ定義の人身御供となってしまったと言っても過言では無いのです。
多分、ここで仮に将也が硝子と別れて直花と良い関係になるという選択をして描かれたとしても、一般論としてあまり納得のいく結末という風に捉える読者は多 くはなかったのではないかと考えます。硝子派か、直花派かというヒロイン派閥論を別として、結局は硝子へベクトルを置くことによって、六十数話という比較 的短い連載期間としては纏まるに易いものだったと改めて感じるのです。
植野直花◀植野  直花

西宮硝子に対する聲の形のヒロイン格の美少女。小学時代に将也や島田らと共に硝子イジメに荷担していた。小学時代のある出来事を切っ掛けに将也を一途に恋 い慕うようになり、高校に至ってもその想いは廃れることは無かったとされる。ただ、将也はそんな彼女の想いに気付くどころか、硝子一途の言動で植野直花は 終始、損な立ち回りを演じざるを得なかった。
硝子に較べて内面表現は少し多かったこともあり、比較的現実的な存在感はあったが、小学時代にクラスから孤立・省かれていた将也を一途に慕い、その想いが 高校生にいたってもなお冷めないという恋愛的な側面はやや非現実的な部分もあったと言える。
根は悪くはない、と言うことを裏付けるために、かつて登校拒否まで追い込んだ佐原みよことは金蘭の契りを交わして最終回に独自ブランドを創設して大成する という幸福帰結に落ち着いた。
DQ5並びにFF7のヒロイン相論については解決の余地が無いものだと言われているのですが、聲の形の場合はそこまでのものでは到底ありません。単に硝子 派・直花派の一例として引き合いに出しただけであって、ヒロイン相論としては申し訳ないが直花には圧倒的不利な素因だらけだったわけです。それは改めて言 う迄もありませんね。
その負の要素をさらけ出し、将也を通じて硝子に勝ちうる心象に至るには、六十数話でかつ登場比率の少なかった直花が挽回する余地というのはありません。想 像の域に至るのですが、鷹岑のように同人的な創作ならば幾らでも書き上げることが出来ますが、やはり公式には及ばないものです。
DQ5のビアンカやFF7のティファはオーバーオール・テンデンシーの代表的なものですが、それでもフローラやエアリスはそうした王道路線に対抗し得る支 持もある事は事実です(鷹岑は創作小説の関係上、フローラに重点を置いていると言うだけです)。

将也の本命は誰なのか

石田将成さんが示した2つ目の根拠ですが、まさに勧善懲悪という型枠で収めないという、聲の形における大今良時氏の大義が結果として西宮硝子・植野直花と いう二人の美少女の存在と双方の将也への好意によって半ば生煮え状態のまま物語が終結してしまった感じがします。植野失恋
恋愛的な意味として考えた場合、高校生の恋愛なんてのはそんなもんだというように嘗めてかかると言うのも失礼な話なんですが、一般論としてラブコメという のは必然的に勝敗の世界を伴うのですが、仰るような敗者は兵を語らずと言ったような厳格なガチンコ争奪戦という色彩もない以上、聲の形はそう言う意味での 立位置は非常にハングアップだったと思います。
確かに、鷹岑は物語として捉えた場合は西宮硝子だったのですが、植野直花も後半は見直す傾向ではありました。それでも、直花が硝子を退けて将也の手を握る 画を描かれるという想像はつきにくかったのです。
結局、聲の形を石田将也のクロニクルという味方で捉えているとすれば、硝子が良かったのか、直花が良かったのか。という結論はむしろ曖昧だった方が良かっ た(曖昧と言うよりも最初からなかったと言っても良いだろう)。
将也はそもそも、終始硝子と直花を天秤に掛けるという心の余裕もなかったわけで、良くも悪くも言い方をすれば〝恋愛に無頓着〟だったと言えるのですから、 この二大ヒロインが自分を廻って暗闘を繰り広げていた。ということを実感すると言うのも限りなく小さな可能性だったはずですね。将也自身がそうした恋愛的 視線を硝子にすら向けていなかったわけだから、直花に対しては尚更だったはずです。
鷹岑が後日譚でもそのままの関係だという予測を立てたのは、やはり本編の短さと、そうした将也という主人公のフラクションだと言うことにあります。何となく、この作品は大きなテーマの断片のみに照らし合わせた物語、という感じがしていたからなのでしょう。

西宮硝子を過去とする、別離をトゥルーエンドとする手法

石田将成さんが示す3つ目の根拠は、確かに硝子との帰結はベストではあるが、聲の形のコンセプトとしてはあまりにもベターすぎと言う印象が拭えない部分であります。
取りわけ、テーマが重厚な割には全話数の制約によって、相当端折る必要性が生じ、結局西宮硝子をある意味物語性としてより完璧に近い肖像にする必要性が あったと言えるでしょう。その結果、植野直花にそれによる皺寄せが来てしまい、終始硝子への指向性を揺るがせる説得力に欠けてしまいました。
この作品に限らず、どのような物語もそうなんですが、ボーイ・ミーツ・ガールには総じてそうしたヒロインの完全的要素と、必敗の法則というような蓋然性があると思うので、西宮硝子にそうした完全的要素を集中させるのは、ある意味仕方がなかったと思います。別れの幸福論
『別離を以て幸福と成す』という手法は意外と普遍的な要素ではありますが、これは各キャラクタに左右両翼のマージンを与えることが重要なのです。それは言 うまでもありませんが、普通は、別れることが良い結末だなんて有り得ませんでしょう。誰もが、主人公とヒロインは結ばれてなんぼという世界というのがラブ コメディの一般論です。長らく感情移入をしてきた主人公同士が、好きだからこそ別れるという結末を見るよりも普通に一緒になる終わり方のほうが良いに決 まっています。
まあ、それくらい別離を良しとすると言うのは至難の業であって、逆にある意味読者を納得させる、溜飲を下げる為の完璧性が求められます。
しかし、硝子をそう言う立位置に置くには、どうしても時間と構築が足りませんでしたね。結局、非恋愛という方向性だったとしても、将硝を別れさせることで 将也を初めとするキャラクタ達の成長を示す、というビジョンの完成には一歩引いていたという印象が払拭しきれませんでした。

そしてこれは鷹岑が一貫して言っていたと思うのですが、将硝別離だから、直花との収斂に向かうというのも本編の流れだとやはり物語としての中核的な空洞が生じてしまい、一般読者を得心させる効果は少し足りなかったように感じます。
硝子を準備不足故に完全なヒロイン化を強めるという方向性に対して、直花は結局は「登場人物皆悪い人ではなかった」という土台に個性が埋没しかけてしまっ たと言えます。正義・悪という範疇で物事を語らないと大今氏は述懐していましたが、奇しくも直花はその現実性たる「悪い娘ではない」というアベレージが、 硝子という、ある意味強力な毒によって耗弱化した存在になったと言えます。ゆえに、鷹岑は直花は硝子に対立する悪としてあるべきだったと言ってきたと思い ますが、大今氏の方針からすれば詮なきことだったと思っています。
それでも、直花のビジュアルが、マルドゥック・スクランブルのバロットに擬していたところに、寸分の投影をしていたのかなと言う心象はあります(大今氏の終末インタビューではバロットについて硝子を引き合いに出していたようですが)。

いずれにしても、石田将成さんが述べる、西宮硝子という物語の卒業と言う形で別々の道を歩んでゆく。という描写に至ったとしても、将也と直花がこれ見よが しに手を繋ぎ合う、と言うこともなかったと思います。むしろ将也はずっと一人でいつづけて、直花がそれでも永遠な片想いで彼を見つめ続けてゆく、という方 向がしっくりときたかも知れません。
まあ、全7集、六十数話で取り纏められる程の安易なテーマではなかったので、イジメ・障碍者・恋愛と麻の如く複雑に絡まった流れを、紛いなりにも捌ききったことは、大今氏の技量の高さを改めて実感させられたと言えます。
そう言えば、聲の形はアニメ化になると言う事ですが、なかなか大変な作業ではありますね。実写化の方がそれなりなものが作れそうな気はしたんですがね。
まあ、再び話題になるときまでの楽しみとしておきましょう。

※追記 2014/12/10

聲の形、2015年度の各漫画賞を総嘗めにしたとのこと。実にめでたい限り。
ツイッターでも言ってますけど、アニメ化なんですが、当然ながら全日帯のテレビアニメとなることでしょう。
社会提起をする、子供から大人まで遍く観て欲しい作品ですから、深夜アニメじゃなく、全日帯であることを楽しみにしています。