渾然と織り成すすれ違い。一時代の青春恋愛譚、康寧なる収斂にて帰趨す

イエスタデイをうたって 第11集(最終)イエスタデイをうたって 第11集 (終)

評価★★★★★

90 年代後期から、00年代を駆け抜け、10年代前半という一時代を駆け抜けた、冬目流恋愛譚の画期となった代表作の終巻。足掛け18年という異例の長期連載 で、名実に冬目景氏の代表作とされるが、連載当時から支持をしてきた年齢層は、30代以上が大部分であることを考えると、冬目氏のモティベーションもさる ことながら、冬目ワールドに傾倒する厚い支持層の弛まない底支えが完走の原動力になったことは、巻末の冬目氏インタビュー記事に裏付けられていると言え る。

冬目氏の代表作に位置づけられ、また異色とされる恋愛譚。端的に表現すれば、読後の印象は非常に「康寧なる収斂」だったということである。
足掛け18年という長期スパンで休載時期も含めて、待ちぼうけや期待に適わない部分があったりなど様々な紆余曲折もあったが、そう言った時期も合わせて俯 瞰してみれば感慨一入でそれぞれのキャラクタに自らを重ねることが出来るだろう。文字通り、読初の時代を当て嵌めてみれば、現実社会は今、大きく変遷を重 ねているのだが、作中の時系列は冬目氏の独特の世界観の中で今昔混淆の不思議さに満ちあふれて、時代の新旧を感じさせない魅力があり、18年間追い続けて きた読者にとっては読初の時期に心がリフレクトし、新しい読者は醇朴にリクオやハル、しな子を中心とした、揺蕩う心模様の底辺にある一途なる真実への回帰 を冬目世界にひたすら没頭し辿ることが出来るだろう。

そうした冬目流恋愛譚の画期となった終巻の康寧なる収斂の基本に、「何が本当に大切なのか」や、「想いの発するところ」といった恋愛ドラマとしては実に単 純なテーマとともに、そうしたヒロイン・ハルの台詞に寄せて様々な名言が生まれていると言うところにも注目したいところである。
とにもかくにも、名匠・冬目氏には無事完走できたことを、心より祝着至極と申し上げたい。お疲れ様でした。
石動乃絵を救済し、湯浅比呂美を昇華す

7年前になるのか、早いもんだ。今なお鷹岑にとってアニメ恋愛譚の最高峰と位置づける「true tears(tt)」。まず殆どとも言って良いほどメインヒロイン・石動乃絵を棄てた主人公・仲上真一郎への非難は、万籟の声となって湯浅比呂美が良いと してきた鷹岑の肩身を狭くしたものである。
まあ、“イエうた”についての蘊蓄は後述するとして、まあ聞かれよ。つまり、鷹岑はいわゆる本命メインヒロインにおもねたくはない。恋愛譚。ラブコメにし ろなんにしろだ。確かに、主人公にとって一番感じが良い。価値観が合う、見た目は……まあこの手の漫画やアニメ・ゲームには不細工な人というのはいないの でそrthれは良いのか。石動乃絵(true tears)
石動乃絵は確かにttではメインヒロインだったが、TVA版では主人公は湯浅比呂美へと終結した。端的に言えば、乃絵は悲劇のヒロインとなったわけである。

まあ、ttについては確かイエうたの以前の考察記事で述べていたような気がする(だったかな?)ので、大分割愛するとするが、ビジュアル的にはそう、イエ うたの野中晴(ハル)の派生的な心象があったわけで、やや“不思議ちゃん”がかっているというところも、ハルと乃絵は共通している。
そう言った視点からだが、ttで欷泣の終結を迎えた乃絵にオーバーラップして、イエうたの終巻の展開は、森ノ目榀子を湯浅比呂美に擬しながら読み進めてある意味、鷹岑としては溜飲を下げたと言える。

『不結実の終極』 ―――― 複数ヒロインをすべて大団円にする究極の手法


鷹岑はイエうたについては榀子寄りの立位置を貫いてきたが、個人的な好みというのも勿論だが、敢えて榀子となるならば、ある意味冬目流のイメージに沿うよ うな感覚がした、というものである。具体的には、性格上としてのハルというキャラクタそのものは冬目氏の世界観としては比較的普通すぎて野中晴(ハル)、カラスを肩に従わせる。と言う不思議ちゃん属性を付加することで、冬目氏の共通する世界作品の主要キャラクタに近づけることが出来たのであろう。

かたや榀子のほうは、恋愛譚という位置づけそのものとして考えた場合に、この「イエスタデイをうたって」という世界そのものの意味に適ったキャラクタだっ たような気がする。過去に束縛され続ける、というベーシスがあることで共有された世界観は、冬目流が追窮した恋愛の真実というものに対する蓋然性を飛躍的 に高める切っ掛けになったと言っても決して過言ではないと考えている。
まあ、そう言う意味で捉えれば、前述のttで本来のメインヒロインである石動乃絵ではなく湯浅比呂美に帰結した展開は、恋愛譚としては慚愧に堪えない展開だったのかも知れないのだが、テーマそのものとして捉えた場合は自然であったと考えるわけである。

複数のヒロインが登場して主人公と恋愛的な関係を構築してゆく物語というのは、殆ど当初に登場、主人公に絡んだメインヒロインに帰結するものである。実は、後発のヒロイン格に帰結するというのは案外難しいものだ。
恋愛もの、ラブコメディは出だしこそ鳴り物入りで華やか、可愛いどころの美少女等が繚乱することを売りとする定石があるが、そうした物語の終結は大概、大 衆が納得するものにはなかなかならない。その理由は個性的なヒロイン達に対する感情移入もあるが、本質的には、その物語が持つ基本原則から大きくずれたヒ ロイン格との帰結という齟齬が発するところに起因するからだろう。
つまり、一番初めに登場したキャラクタと帰結するのが本来の基本なのに、二番手以降のヒロインとの帰結。もしくはその一番手が基本原則からかけ離れたキャラクタに変化していったことが想定されるのである。森ノ目榀子

いわゆる飛車角取りという形になるわけだが、どちらの大駒を取られれば負けるのか。どちらを切れば戦局が優位になるのか、ラブコメはまさにそうした先を見越す技術力を試される部分が大きい。
さて、どちらも取られたくない。どちらか一方が欠けても戦局は不利になる。精神的ダメージが大きい。そう言う場合はどうすればいいのだろうか。
ラブコメはどうせどのような結末を迎えても批判の目に晒される、と言うのであるならば、一層のこと投了すると言う手もある。つまり、どちらも選ばない、というものだ。

鷹岑はこれを“不結実の終極”と表現しているが、学園もののラブコメの場合ならば誰か1人とハッピーエンドになると言うよりも、誰とも結ばれない。フラれ るという訳ではなくとも、選べない、選ばない。という敢えてあやふやにする、という結末が総じて中立的なものになると考えている。
ラブコメでそれはあり得ない、と思う人も多いだろうが、結局誰かと一緒になったとしても、それはおかしい、あり得ない話だという批判を受けることを考えた場合は、双方の肩を持つという意味で不結実が一番のソフトランディングなのである。
湯浅比呂美
イエうたの場合、不結実の終極には出来なかったのか。客観的に足掛け20年近くに及ぶサイクルの中で、これだけは出来なかったのかも知れない。
榀子との結実は総合的な雰囲気として推奨されなかった。冬目氏もハルへの帰結を標榜していたとするならば、榀子を敢えてイエうたのベーシスに置きながら も、リクオと結ばせなかった姿勢は一貫している。少なくとも、リクオが必ずしもヘタレではなかった、ということの証左は、冬目氏が巻末で示してきたコメン トの中に凝縮されている。

それはともかくとして、話題に挙げたttの湯浅比呂美をオーバーラップさせる榀子。不思議ちゃんの乃絵が涙を呑み、後ろ向きな比呂美に帰結し、未来を誓っ た仲上真一郎にモヤモヤとした感覚を抱いていた小生にとって、イエうたの帰結は、乃絵を救済し、かつ比呂美を更に一段上に昇華させるというふうに独自解釈 を取った。
「真一郎の心底に湯浅比呂美」と看破していた石動乃絵。魚住陸生は、心底に榀子を抱えながら、榀子を昇華させハルに帰趨した。多分、この物語に不結実の終 極は思案の外だったのだろう。乃絵の前では自然体だった真一郎。ハルの前では気張ることがなかったリクオ。もしも、両者を“ヘタレ”だと断じるならば、前 途多難な道を選んだ真一郎と、イエスタデイから、トゥモローに心を向く切っ掛けを掴んだリクオの分岐点だったと言うことなのかも知れない。

非エロで救われた魚住陸生。そして帰るべき場所に帰ってゆく登場人物たち

先述した冬目氏が巻末コメントで述べていたものに、エロ要素は排除した、という文言がある。まあ、冬目氏の筆致にそうした色気を感じるというのは相当高度 なものだが(良い意味で)、画一的な漫画業界のラブコメ分野の中にあっては、冬目氏は異彩を放っているというのは否定しがたい事実であろう。狭山杏子
リクオ・ハル・榀子・浪とそれぞれの人間模様を中心とした純粋な恋愛譚は、2010年代に至っては希少価値が高い。更に足掛け約20年という時代の変遷を 得て支持されてきた恋愛譚は、今の世に滅びつつあるアナログな心の掛け合いが見受けられて、鷹岑のような年代ではシンパシーを感じる部分が多々あるのであ る。
中途半端なエロが作品を台無しにするということもままあるわけだが、イエうたは物理的なエロさもなく、またプラトニックな部分もそう言う意味では排除された。
まあ、浪と同棲した莉緒などは作品中で色気を醸成させたキャラクタの1人とされてきたが、俗に言う生々しさというのはない。

劇中では主要4人に係わるキャラクタ達がそれぞれに悩みや迷いを抱えている立場に描かれてきた。最終巻ではそうしたいわゆるサブキャラ達が続々と収斂してゆく。御都合主義というわけではあるまい。皆、それぞれ帰るべき場所に帰って行く。
イエうたの岐点とも言える舞台・喫茶ミルクホールの美人マスターである狭山杏子も、帰趨してゆく。18年も経ち、また鷹岑が読み始めてから10余年。ハル や榀子よりも、杏子指向が高まったといっても過言ではないが、彼女がたどり着く場所にたどり着いたのは救いだったと言えよう。

柚原チカそして、リクオの恋愛関係に絡まなかった柚原チカ。頽廃的だが必ずしも無為な生き方をしていなかった彼女も、帰趨してゆくのだろう。
現実的に結婚したいと思う女性は誰か。柚原チカと敢えて鷹岑は答えよう。料理の得意な女性に悪女はおらず。という固定概念から来ているのだが、それを除い ても、チカは必ずしも頽廃的な生活を望んでいるわけではないと考えた。意外にも生活はしっかりとしているような気がするのである。リクオにとっても、現実 性を考えれば、チカのほうが相性が良かったのではないだろうかと、今更感ながら思う。

鷹岑も御多分に洩れず、冬目流への傾倒の契機はイエうたなので一概に断言するようなことは言えないのだが、このイエうたという作品は、果たして恋愛的物語 だったのか、という疑義を呈す。どうも、冬目氏の世界観を紡ぐ諸作品のひとつと捉えてみれば、恋愛は冬目世界の一里塚、的な感覚で、目の色を変えるほどの 重要要素であるという風にはどうも感じにくい部分が多い。
勿論、男女が絡むことゆえに恋愛要素はあり得るわけではあるが、イエうたについては10集まで実に惚れた腫れた、ということに強調されるような場面は特に 恬淡としている気がする。恋愛物語ではあるが、冬目氏の基本理念は恋愛ではない。羊のうたや、ハツカネズミの時間などに代表される人の本質や、異質なもの と共存する、パラレルワールド的な不思議な空間。恋愛譚という陳腐な世界よりも高尚な世界を描こうとしたのか、という話である。過去に囚われ続ける榀子 に、カラスを従える不思議ちゃん、ハル。冬目流の神髄を知らないながらも生半可な恋愛論者の読者が榀子を選ぶというのも、あながちおかしくはないだろう。

「聲の形」の西宮硝子と植野直花――――帰結するべきヒロイン論争

ここで、週刊少年マガジンで連載されていた沸騰的人気作「聲の形」の話題を出してみよう。何の関係があるのか、という話だが、かの作品では主人公の帰結す るべきヒロインとして、正ヒロインである西宮硝子と、准ヒロインである植野直花、という二人が物語の指向性を担っていた、ということである。
詳しくは鷹岑家文書内に独自の考察記事として挙げているのだが、端的に言えば西宮硝子は障碍者、植野直花は健常者で、主人公は西宮硝子をいじめた過去の枷 を背負いながら、新たな人生を歩んでゆく、というストーリーである。物語そのものとしては、主人公と西宮硝子の視点で描かれる。
西宮硝子
悲劇のヒロイン然とした西宮硝子。一方の植野直花はいわゆる性悪という部分も隠すことなく表現された、極めて現実性の強いキャラクタとして主人公に係わる。
大まかな考察記事は鷹岑家文書内にあるので割愛はするが、イエうたを考察する上で引き合いに出した理由というのは、かく言う理想と現実という相反するキャラクタ性と、物語の基本理念である。
まあ、聲の形はいじめというディープなテーマをベースにあるので一概に論じきれない部分はあるのだが、かく言う西宮硝子派と、植野直花派という、ラブコメ ディという立位置から発した際に慣例化された二大ヒロイン論争があった。物語の基本原則に法った見方をしているので、必然的に硝子寄りの論評を展開してき たのだが、聲の形全体が、非現実的な空気に満ちてきた時点で距離を置いてきた。
しかしながら、植野直花への帰結はまずないだろうと指摘してきたわけで、奇しくもイエうたでリクオが榀子との会話の中であった、「同じ」という言葉の本質に直結するのである。
つまりは、磁石の同極が反発するように、実は現実的なヒロイン像というのは、物語としてはつまらないのである。
植野直花
聲の形の主人公と、准ヒロイン植野直花は同種であるが故に、物語としては無味乾燥。イエうたもリクオと榀子は彼が言っている通りなのである。
ここまで俎上に挙げてきた作品いずれも、本ヒロインというのは主人公の思考心情とは対極に位置するキャラクタ性となっていることが多いのに注目したいところだ。

イエうたがハルに帰結したのはそう言う意味で自然な話であって、現実的にはなかなかそうは割り切れないものがあるだろう。
ttや聲の形は、主人公は初めから本ヒロインの方を指向していて准ヒロイン格が立ち入る隙は殆ど無かった。だが、イエうたの場合は本来のヒロインであるはずのハルよりも、主人公リクオは榀子に指向していた事を、最後の最後まで述懐している。
作中の時系列はそんなに経過していなくても、実際の連載期間が足掛け20年近くもあって、ハルがこのまま想いを遂げずにシングルアゲインというのも後味が 悪い。ttや聲の形も、仮に数十年のサイクルで描かれていたとするならば、また違った展開もあっただろう。まあ、テーマの軽重もそうした人間関係に大きな 影響があると言うことも踏まえての話ではあるのだが。

ただ、イエうたやtt、聲の形の他にも様々なラブコメディ・恋愛譚に共通する話ではあるが、単純にどのヒロインと一緒になるのが良いのか、という一点に矮小化するのは実にもったいない。ゆえに鷹岑は面倒臭いから不結実の終極という選択を提起しているのである。
まあ、要するに現実性という意味では、森ノ目榀子=植野直花、理想型としては野中晴=西宮硝子という構図、ということを言いたかったわけだが、それを言うなら数多のラブコメディ作品を引き合いに出さなければならなくなるので、ここまでにしておこう。

「イエスタデイをうたって」がもたらしたもの

昨今のラブコメディ・恋愛譚の読者は白黒を明確に付け、気持ちが揺れ動くと、すぐに「ヘタレ」の烙印を押す。女キャラクタならば「ビッチ」とすぐに言う。実に柔軟性のない読者達ばかりになったものだと率直に感じる。
イエうたは何を伝えたかったのか。それまでの冬目流とは明らかに異色とされた恋愛譚だが、冬目氏も言うように奇を衒うようなことではないだろう。それが目的で20年近くも連載が維持できるわけがなく、また支持者もつくとは到底思えない。

根本は、冬目氏個人の自然体目線。と言うものではなかっただろうか。森ノ目榀子にずっと想いを寄せてきた魚住陸生が、野中晴と出逢ったことから始まったひとつの線が、大きな円を描いて始点に戻る。内実はまさに奇を衒うものではなく、至極単純だったという事なのである。
そしてそうした単純性のお陰で、彼らを取り巻くサブキャラ達個々の心情描写を構成する上で、皆同じ懊悩を持つ者として共振することが出来たのだ。繙いてみれば、主人公達を始めとして、登場人物達は皆、帰結するべきところに帰っている。

抑揚がない、目を瞠るような展開がない。イエうたは波瀾万丈な恋愛活劇ではない。切なく、それでいて棄てきれない未来志向。過去に想いを馳せながらも何か が切っ掛けでゆっくりと前を向いて歩きだす。人間言うだけ易しなかなかそう上手くは行くまい。イエうたの醍醐味はそこにあるのである。

第11集、魚住陸生は榀子への想いを完全に割り切ったわけではないだろう。ハルはあい変わらずリクオを追い続けるのだろう。榀子もまたリクオと浪の間で、亡き恋人への思いを完全に断ち切れたわけでもないだろう。浪は莉緒よりも、醇朴な心に順った。
物語は、そうした主人公格よりも先に彼らを取り巻くサブキャラが続々と帰趨していったが、彼らはその途上でフェイドアウトする。だが、それで良いのである。白黒を明確に付けるのだけが恋愛譚ではない。別の異性に視線が移っただけでヘタレでも何でも無いのだ。

迷い多き人生。迷いがなくなったら、それは達観という。恋愛はいつでも葛藤し、迷い多きもの。そう言う意味で冬目氏流の片鱗を示した全11巻、18年間の集大成だったと言えるのではあるまいか。
1990年代後期から、2010年代前半に跨がって駆け抜けていった、青春恋愛譚の終結は、恋愛漫画史に一時代を築いた大作の、ひとつの画期となったと言っても過言ではあるまい。
イエスタデイをうたってから受け継ぐDNAは、今後の新進気鋭の漫画作品に活かされてゆくのだろうという期待が、鷹岑の中にはあるのである。