自由奔放な瀬尾氏流ラブコメ、週刊連載とは正反対の“気儘”な装いで幕

プリンセス・ルシア 第5集(終)プリンセスルシア 第5集(終)
評価★★★★★

第30話~第38話(終)を収録し、限定版である当商品には「All Star Collaboration Comic」とした、正味16ページの小冊子描き下ろし漫画を附属している。
全 巻末に登場し、冒頭にアクションを交えるカマエルを始めとして、最終巻にいたり数名の新キャラを投入するなど、瀬尾氏流の無窮自在なストーリー展開は制約 の域を超えているが、瀬尾氏も述べているように「自由気儘にやらせて頂いた」という言葉を裏付けていて、本家正流の某・週刊連載音楽漫画とは正反対の、瀬 尾流ラブコメディを貫徹させたことに高い評価をする。

足掛け7年とは言うものの、当該作品は隔月刊。また氏自身も各誌に重複連載を抱え、他作品のメディアミックスもあるなど、実質的には3,4年の構想期間ながら、本当の意味で瀬尾氏が遂行したかったジャンルや志向性が表現できた作品のひとつであるというように解釈している。
内容は、主人公・小泉ユタを囲む全ての美少女キャラがユタに好意を懐いている(懐く)、という陳腐なものなのだが、作品のコンセプトの上に立てば申し分の ないものであり、ファンタジーという分野である以上、非常に無難な顛末を迎え、強烈なインパクトというものはなかったものの、物語そのものとしては読後の 痞えというものを感じさせない分、良かったと言えるだろう。
ただ、カマエルや終盤に登場する新キャラ達も、総じて主人公に敵対すると言った波乱はなく「ドタバタ劇」という安価な印象が残ってしまったため、物語としてのキャラクタの個性は瀬尾流らしく稀薄なものとなったようである。

附属の小冊子は、現行連載の風夏を始めとした、それまでの瀬尾流の作品のヒロイン達が概ね一堂に会するという、クロスオーバーコメディという形で進む短編読切となっている。
詳細な内容は省くが、全体的に瀬尾氏の自虐的ネタが主要を占めており、ネットや一般ファン層が一度は思ったことを述べていて読者側の突っ込みどころの機先 を制している内容だと言えるだろう。瀬尾氏ファンならば一読の価値はあるが、特別希少価値の高い内容でもないので無理をする必要はないと思われる。

或る意味、週刊連載のフラストレーションの捌け口を求めた瀬尾流、傍系が本家を凌駕する

2009年の9月20日の記事に て紹介されていたが、プリンセス・ルシアは多分、瀬尾氏が涼風の連載終了後にマックガーデンの担当編集から声が掛かり、“ノリ”で連載を始めた、多分軽い 気持ちだったのだろう。軽い気持ちが次第に大きく到り、足掛け7年という長期連載をもたらした、と言う話になるのだろうが、良くも悪くも、プリンセスルシ アは涼風の余韻が耳に残る中で構想が始まり、瀬尾氏自身の2016年現在の大作・君のいる町を最後まで見届け、現行の風夏が単行本二桁台を臨むという、所 謂瀬尾氏の歴史、作品としては自身が語る二世代の涼風から風夏へと繋いだヒストリーを見届けてきた唯一の作品ではあった。

主人公・小泉ユタは、優しく人を恨まず、それでいて種族を越えて女性達から好意を持たれる。という、瀬尾氏流の主人公の特徴を完全に再現されている。唯一他作と違うのは、舞台がひとつの町に定着しているため、無謀な行動を起こさない、と言うところであろうか。
君のいる町や現行の風夏の各主人公達がほぼ恋愛面関係においてチート状態で批判を浴びる中で、プリンセスルシアは、そういう点においても正々堂々としたチート状態をひけらかし、完全なるファンタジーラブコメとしての、或る意味開き直り方が最大の特長であったと言える。

つまりは、瀬尾氏は当該作や、Half&halfのように、ファンタジー系月刊・クオータリー系の漫画誌の方が本領を発揮できる、と言うことの証左ではないだろうか。
現行の風夏が一般的にあまり芳しくない評価を受けているとされる中で、奇を衒いすぎたストーリー展開を求めるならば、こうしたファンタジー系に週刊畑での フラストレーションの排出口を求めて、或る意味弾け、瀬尾氏のやりたいことを自由闊達に行うことが出来たのだと言えるだろう。
まあ、それが結果として本家嫡流の週間連載・風夏よりもクオリティの高い内容となっているというのも皮肉なものではあるが、同じ瀬尾氏自身の作品という事から評価は非常に複雑なものであると言えるのである。
ただ、本流が紛いなりにもリアリティというものを追求して悉く非難の対象と化しているのに対し、プリンセスルシアは終始、ファンタジーという世界観の中で瀬尾氏も語るようにフリーランスの舞台設定があったため、全てが上手く回転したのだと言える。

つまりは、本流において御都合主義とされる展開も、プリンセスルシアではファンタジーと割り切られるために違和感はなく、主人公に根本的に敵対する存在が なくても、ハーレムという自由設定がある事を考えてみれば良いわけであって、当初からプリンセスルシアにストーリー性を求めていることはなかったのが大き な理由なのである。
そして、作品は終了したが、オチもまた瀬尾氏らしいものであったと言える。事細かには言わないが、ある意味呆気なさというのが、ひとつの瀬尾氏の持ち味のひとつであると言うことである。

瀬尾作品コラボレート、自虐観に寄せる瀬尾氏の開き直り

プリンセス・ルシア最終巻小冊子初回限定版に附与されている小冊子「All Star Collaboration Comic」だが、瀬尾氏を賛美する層も、批判する層も一度は目を通して損はない内容である。
過去の瀬尾氏の作品(主に週刊畑の連載作品)の登場人物達が一堂に会するというクロスオーバー形式となっているが、それ以上に瀬尾氏の自虐要素が根本にあって目を惹く。
鷹岑としては、涼風を踏破し、君のいる町での中後半全話考察と熟読してきた中で疑問に思っていたストーリーそのものに対する自虐的評価を見たかったのだ が、内容はほぼ描き分けというものに対する可否のようである。ショートカットのヒロインや、ロングのヒロインなど多種多様に描かれてきた瀬尾氏の世界だ が、いずれも過去作品のキャラクタとの描き分けが出来ていないというものであった。
しかし、それは瀬尾氏が言うまでもない周知の事実であって、描き分けが不可能であるならば、本来キャラクタ個々を色濃く肉付けして個性溢れるキャラクタに 仕上げてゆかなければならないわけであるが、瀬尾氏が現行作品「風夏」に到るまで、それが出来ているのかどうかは疑問符がつくと言うことは否定できない事 実のようである。

まあ、プリンセス・ルシアの限定版小冊子という事もあって、基本的には瀬尾氏ファン層を対象としているものなので、ある意味開き直って自虐的評価をしてゆくというのもある意味有りなのかも知れない。
ただ、足掛け7年という、決して短くはない年月の中で、瀬尾氏自身が漫画家としてどのように成長したのか、それを筆致という意味でも確認が難しかったというのは、皮肉なものなのである。