感動的場面の筈なのに、何故か首を傾げる瀬尾流技法の怪

~週刊少年マガジン・瀬尾公治氏『風夏』第 109回 考察

瀬尾公治ファン&アンチテーゼ、また風夏読者にご挨拶

お久しぶりです。
当ブログにて「君のいる町」中後半以降の全話の考察を成し遂げ、風夏は第33話に特別考察を挙げた鷹岑昊が、平成28年5月25日の第26号(6月8日 号)に掲載された風夏・第109回に限り考察記事を書いてみたいと思います。風夏(第109話)より
君のいる町時代に色々とお世話になった、瀬尾ウォッチャーの〝左近衛権中将信濃守〟様からは徒労に終わるだけの無駄なことと諫止されたのですが、まあ「君の いる町」が終了して2年余、いい加減に瀬尾公治君の物語構成技術がレベルアップしているだろうと見越していますので検証します。
ちなみに、君のいる町・最終回完走後に燃え尽きたため、鷹岑はこの「風夏」については単行本は買っていません。当然、電子書籍版でも揃える気は毛頭ありま せん。それ位、君のいる町で瀬尾氏の技法について、満身創痍となって懲り懲りとなったからです。
週刊少年マガジンそのものも買わなくなり、立ち読みやネット記事の有志実況に触れる程度でしたが、今回、どうも“第二代・風夏”が大変なことになっている という話を聞き、また瀬尾君やらかしたのかと。
鷹岑は音楽バンドのテクニカルな部分を論じられるほどバンド音楽に詳しくはないのでストーリーそのものに限られるが別に、誰のためでもない自己満足的な、 いわゆる「ひと言いわせて貰っていいですか?」的な感じでご笑覧頂け れば幸いです。

◆そもそも舞台が伊豆であるという 意味について

第2代風夏こと、碧井風夏の追加設定として、彼女の父親を「初代・風夏」こと秋月風夏のことをトラックで轢き事故死させ退場させたとして登場させている訳 だが、ヒロインはともかく、登場人物の比較的重要な立ち位置にあるキャラクタを事故死という形で退場させる事は珍しいことではない。少なくても、病気で死 亡退場という技法は特定の病名をなかなかひけらかすことは難しい(癌患者や、大今良時氏・聲の形のコンセプト等)。面倒な議論の火種になるくらいならば、 一層のこと大型車や特急電車に撥ねられた、という不慮事故の方が余程現実性は高い。なるほどである。
さて、碧井風夏の一連の行動と、舞台の関連性について。

①舞台、静岡県(伊豆)の意味

碧井風夏が登場した時に、人物設定を瀬尾氏はしたと考えられますが、そもそも今回の一連のストーリー展開を通じて、彼女の出身地を「伊豆」に設定した意味 がどういう点にあるのかが謎です。
出身地設定に関して瀬尾氏は「君のいる町」の御島明日香を福島県・いわき市に設定しましたが、これは瀬尾氏の親類縁者が福島県いわき市に存在するという事を以前に述べている から分かりますが、御島明日香の場合は、台詞の端々に福島弁を入れているので、設定そのものは生きています。ちなみに、プリンセス・ルシアの登場人物、カ マエル(釜江瑠華)も主人公のクラスに転入してきた際に、福島県・いわき市出身としています。
カマエル(釜江瑠華)=プリンセス・ルシア=◀カマエル(釜江瑠華)=プリンセス・ルシア=     /     御島明日香=君のいる町=▼御島明日香(君のいる町)

瀬尾氏の親戚が福島にいる、という話をしていたことから君のいる町の第2ヒロイン・御島明日香、プリンセス・ルシアのゲストサブヒロイン・カマエルが共に福島県・いわき市に縁があるという設定が成された。
両者とも、出身地の福島弁を作中で仄めかし、設定そのものが活かされた。
ただし、御島明日香に至っては、家族の看病で帰省していたのにも拘わらず、主人公・桐島青大を驚かせようと図り、遠い広島にひょっこり現れるなど、設定そ のものの形骸化が後半になって顕著になったという、瀬尾流得意の安直なる人物取捨の色合いが色濃く出たキャラクタでもあった。
プリンセス・ルシアのカマエルは、主人公・小泉ユタのクラスに偽装編入する際に建前として述べた出身地であり、本来は天使なので直接出身地に関わりはないとされる。
しかし、碧井風夏の設定を静岡県の伊豆地方にした意味は、あまり風夏本編中でも表現されているようではありません。今回、主人公・榛名優が彼女の実家を訪 問したのも、伊豆地方の風景やアトモスフィアといった特徴もなく、訪問して早々に応対した彼女の父親に「タバコを止めてくれ」と抗議するなど、礼儀に事欠 く有様です。
また、碧井風夏が、秋月風夏の事故死の責任を思い込みで背負い、自らも道路を走るダンプカーの前に進み出て事故自殺を図ろうとしますが、こうした一連の碧井風夏“三顧の礼”の状況や場面だけを捉えると、何も静岡や、伊豆地方に舞台を設定する意味はあまりありません。
それこそ、以前瀬尾氏が語っていた「三浦半島を舞台にラブコメを描きたい」という事を実現するように、自身がインスパイアされた舞台・情景を描けば良いのです。
城ヶ崎海岸
せっかく碧井風夏の地元を伊豆地方にしたというのならば、この第109話での榛名優との話し合いを、たとえば優が降り立った場所でもある城ヶ崎海岸にする など、碧井風夏が秋月風夏の事故死の「責任」を取って、榛名優の前から消えたいと本気で思っているというのならば、出身地設定との相乗効果を狙い、こうし た舞台を設定し、トラック・ダンプでの轢死などではなく、断崖絶壁からの投身といった絶対的退場を図った方が良いのです。
もしも実際の本編でそのような設定がされていたとしても、瀬尾氏の描く主人公はすべての面につき極めてチートなので、断崖絶壁から身投げをするヒロイン・碧井風夏を追って投身し、彼女を抱きかかえながら垂直に海面に突き刺さり、一命を取り留めます。
これ見よがしに前ヒロイン(メインヒロイン)秋月風夏と状況を同じくしてトラック(ダンプ)に轢かれかかる、と言ったあまり意味のないフラッシュバック効果は極めて蛇足だと言えるでしょう。
漫画やドラマなどのキャラクタの必須設定である出身地には、ただ適当に付ければ良い、というものではなく、重要な場面や人格形成に関わるリアリティなる「地域の特性」というものを吹き込む意味があります。
碧井風夏の失踪から、この第109話に至る流れでは、彼女の出身地が伊豆である必要性は正直、皆無です。間一髪という技法でトラックやダンプから救出するだけならば、それこそ北海道稚内でも、鹿児島県南大隅町でも良いのです。

②碧井風夏事故(自殺)未遂の技法

事故自殺(事故に遭うと分かっていながら逃避を図らない、事実上の自殺行為)を再び起用した瀬尾氏ですが、秋月風夏の死亡退場を再現させるという意味合い で用いたのでしょうが、鷹岑が読み進めて何度も検証しましたが、碧井風夏を「救った」という事実以外に何の感傷も受けませんでした。榛名優にとっては極め て大事な状況・場面であるはずなのに、どうして胸に詰まるものがないのでしょうか。君のいる町名場面(第137話)

Ⅰ.枝葉柚希回帰を決定付けた、ひょうたん池の場面を想起

君のいる町の名場面のひとつでもあった、ひょうたん池での抱擁(第137話=単行本第15集収録=)も、命を抛つ覚悟と行動で青大は苦手とされた水中に飛 び込み、思い入れのある品(ネックレス)を取り戻す。そして、青大が秘めていた本心本音を絶叫するのであるが、今回の碧井風夏の事故自殺未遂に対する優の 投身は正に物語の画期となった君のいる町第137回を連想させるだろう。まあ、向こうは想い出の品を取り戻したのに対し、風夏の場合は、ストラップが砕け 散った事による完全なる秋月風夏との訣別を印象づけるという、物語としての基本理念として、過去への指向性の違いが明らかになったわけです。

しかし、単純に命を張るという技術論から検証してみても、「君のいる町」と「風夏」では構成技術と物語基幹に大きな差異があると言えます。
まず、「君のいる町」では主人公・青大が当初から枝葉柚希しか見ていなかったことから、御島明日香との破局は時間の問題であって、ひょうたん池の抱擁から明日香別離までの経緯は長く深層心理で蠢いていた感情の湧出の端緒になったという事で個人的には違和感がありませんでしたが、風夏の今回、第109話については、それまでの流れで技術的には命を張り本心本音を吐露す るという共通点がある他には、君のいる町のような連綿とした基本路線は目に見えませんでした。つまり、碧井風夏が命を抛ってまでも榛名優に謝罪をしなけれ ばならないというような絶対的使命感という見方における重要な根拠に決定的に不足しているのです。だからこそ、場面こそ衝撃的、鬼気迫る雰囲気でありなが ら、どこか淡泊とした受け止め方になるのでしょう。

Ⅱ.秋月風夏を死亡退場させた根拠不足の後遺症

そうした根本的な素因は、言わずもがなメインヒロインである秋月風夏の死亡退場という、土台基礎を自ら壊した瀬尾氏の技量不足にあります。
音楽漫画か、ラブコメかという分野分類がようやく定着しつつある中で、瀬尾氏は奇を衒う意味で足掛け「涼風」以来の二世代にわたるヒロインであった秋月風 夏を事故死させるという禁じ手を放ったわけですが、それに至るまでの榛名優の心情描写や秋月大和・涼風夫婦の葛藤などといった過程や、秋月風夏死亡退場と いう物語の土台破壊に対する様々な設定補完、読者サイドへのケアなど全てが簡略化(中途半端)されたため、メインヒロインの死亡という事実そのものだけ が、悪い意味で後を引いているために、主人公や碧井風夏を巡る一連のストーリーが空虚になるのです。
瀬尾氏は君のいる町でも、主人公のライバル的存在になり得たキャラクタを病死退場させているのですが、せっかく死亡退場というトランプのジョーカークラスのカードを切りながら、人物相関図の厚みが出る切っ掛けをみすみす潰し、意味のないものにしてしまっています。
秋月風夏の死亡退場は、君のいる町のライバル死亡退場とは比較にならない、メインヒロインの退場というものなので、極めて高度で至難な物語の舵捌きが求め られていたはずなのですが、実際の本編は秋月風夏の死亡退場による彼女の存在感は主人公達にとって極めて大きなものになり、音楽バンド漫画としての地位を 確立してゆくのだろう、と思っていた矢先に碧井風夏というキャラクタを出してしまったのです。
ただでさえ、世界設定そのものを大きく崩すメインヒロインを死亡退場させることの意義と、物語としての基本原則と根拠が明確になっていない中での碧井風夏 の登場と、今回の事故自殺騒ぎは、瀬尾氏の技量不足と人物相関図の希薄さ、淡泊なストーリー構成法を改めて実感するものとなったのです。

◆碧井風夏、不要論

そもそも、音楽バンド漫画に大きく舵を切るにしても、逆にラブコメ路線へ舵を切るにしても、また現在の流れのように両ジャンル併行路線を進むにしても、鷹岑の見方としては、そもそも碧井風夏というキャラクタは要らなかったのではないか。という考えに至るのです。
メインヒロイン・秋月風夏の死亡退場によって、涼風以来の瀬尾公治支持者がコアな固定支持層を除いて脱落したのは自明の理だとしても、鷹岑はメインヒロインの死亡退場技法を完全否定するつもりは毛頭ありません。
ただし、その技法を使うのならば、碧井風夏などという新しいヒロインを創作し、投入する必要性は全くありませんでした。
碧井風夏の投入が、瀬尾氏らの長期戦略的な一手だったとはあまり思えないのです。同じ下の名前に、同じ音楽を志す美少女というあざとい設定には、「風夏」 という漫画を、名もなきインディーズバンドアーティストたちのアメリカンドリームのサクセスストーリーとは少しずれた、御都合主義の色彩を強めてしまった と言えます。
秋月風夏の存在によって、天に昇る竜となることを目指すというのならば、一層のことメインヒロイン格を出さず、優や三笠らの残されたメンバーだけで進める方が余程面白い構成になったのではないかと考えます。

Ⅲ.石見沙羅ちゃんの憂鬱

ラブコメ路線をも蹈襲するというのならば、「ジ・フォールン・ムーン」のメンバーである石見沙羅で良いのです。メインヒロインでなくとも、彼女は主人公・ 優に惹かれているのだから、必然的にラブコメディ色がつきます。“たまちゃん”こと氷無小雪はどうかという話にもなるが、小雪は瀬尾流としてはヒロインに はなれない宿命を背負っています。「涼風」の桜井萌果的な立ち位置であり、瀬尾氏としては強かなキャラクタとして線の細い女性キャラをメインヒロインに置 き、存在感を放つという技術もありませんので、恋愛的意義としては早晩にフェイドアウトされるキャラクタです。石見沙羅
振り返ってみれば、「君のいる町」程ではなくなりましたが、やはり美少女・美女キャラに事欠かない主人公のチートさが嘆息させられます。しかしながら、そ れでも碧井風夏というキャラクタが投入されていなかったと仮定すれば、この作品はもっと面白い作品になり得たのではないでしょうか。過去の君のいる町の考 察でも何度も言ってきたことですが、意味のないサービスカットや、いちゃつく場面は要りません。ましてや、風夏はメインヒロインが死に、主人公たちのバン ドが「伝説となってゆく」という謳い文句があるだけに、本場のバンド漫画になるべきだったのです。

石見沙羅は、初登場こそツンとした印象で高飛車厳格(無口で人見知り)なクールビューティという感じだったそうですが、優を前にすると天然でいて彼が気に なって仕方がない。しかし天才的なベーシストという厚みのあるキャラです。「風夏」のキャラクタそのものとしてみても非常に魅力のあるビジュアルをしています。
そういう意味で、十分に沙羅はヒロイン格の存在としてバンド漫画に花を添える素質を備えていたと言えるのですが、瀬尾氏は自らが設定したキャラのそうした 素質を活かすことが出来ない稀有な作家でもあるので、悉く様々な好機を逸し続けてきました。碧井風夏という蛇足的な存在が、沙羅の本来の魅力を封じてし まったという、勿体無い存在なのです。

歌詞や臨場感がないという批判について

この物語を流れとしてみて、ライブシーンに歌詞がない、臨場感がないと言った批判があるようですが、個人的には歌詞については特別描かなくても良いように思います。
仮に一部の詞を効果として文字に出したとしても、昨今のネット網の厳しい目線ではすぐにパクリやら盗用と言った粗探しをされます。歌詞ですから余程ヘイト チックな者ではない限り、フレーズとしては限られてきますので(「あなた、君」、「愛」や「逢いたい」、「ひとりじゃない」など)そこは読者の感覚・想像 力に付託して構わないと、鷹岑は思います。臨場感や、音楽技術の描写についても私は詳しくは分からないのでそうしたテクニカルな部分を表現する作品ではな い限り、そこに的を絞って批判することにはいささか疑問があります。

ただ、これがさも最高の音楽漫画と位置づけて瀬尾氏が様々なプロのバンドアーティストと対談し、大風呂敷を広げる姿勢には共感は出来ません。プロのアー ティストたちも、仕事の一環として瀬尾氏と対談しているだけであって、本心からこの作品を音楽漫画として評価しているかどうかには疑問があると思っていま す。


まとめ

無駄に長くなりましたが、そう言う意味で、短絡的だとは言いませんが、碧井風夏の事故自殺未遂と、伊豆であることの意味について検証・考察してみました。
要するに、そもそも碧井風夏をメインヒロインに挿げ替えるには、秋月風夏強制退場の総括と収斂がほとんど手つかずの状態だと言うことによる、無駄な行動ということ。
根本的に碧井風夏というキャラクタそのものが不必要な存在であったと言うこと。
秋月風夏の事故死亡退場時のトラック運転手の存在にいちいち着眼し、碧井風夏を、その運転手の娘に位置づけるという蛇足が、あざとさ溢れる瀬尾流そのままの手口だと言うこと。
瀬尾氏はとかくキャラクタに命を張らせることでしか、本心・本音を語らせる切っ掛けを与えない作家であると言うこと。
読者はテクニカルな部分を批判、持ち上げるだけではなく、俯瞰して作品を捉えることが重要だと言うこと。
そして、この記事タイトルにある瀬尾流技法は、君のいる町時代から特段進化も劣化もしていない、と言うことです。

以上、相も変わらずつたない考察記事でしたが、最後までご清覧いただき、まことに有り難うございました。機会があれば、また(笑)