“それでも僕は君が好き”人物考察①

数奇な波瀾恋愛の取りを飾った、ラスティングヒロイン

サムスンサムスン

孤 高の虚栄を纏いし都会派ウーマン、疾駆する芹澤に響振し自己解放を果たす

実写版:奥田 恵梨華 / イメージCV:日笠 陽子



恋愛物語、ラブコメというジャンルには主人公が必ず結ばれる、或いは結ばれずとも破局にはならないというキャラクタが存在する。いや、しなければならない。恋愛ものと銘打っておきながら、皆破局ではそれは恋愛ものとは言えないだろう。
そして目の肥えた読者ならば、そう言った物語のオムニバスを彩るヒロイン達の中で、誰が花を持つのかというのが初見で判るものだ。
そして、徐譽庭・絵本奈央両氏が手掛けた、「それでも僕は君が好き」のラスティング・ヒロインは、今回考察の俎上に上げるキム・サムスン編のサムスンであると云っても決して過言では無い。

ビジュアル面から見るヒロインの華

どのキャラクタが主人公と一番良い感じに行くのか、という観点からすれば、実は意外と単純明快で、第一印象である見た目・ビジュアルで判るというものだ。
「それでも僕は君が好き」でサムスンがその役割を担っているというのは全ヒロインを見較べてみれば存外判りやすい位置にあると言える。と云うのも主人公・芹澤祐輔の視点に立てばの話である。
この作品において、初見のヒロイン格である「野ブタ」には、ラスティングヒロインの要素は無い(理由については野ブタ編で解説できればと思っている)。そ して、野ブタとサムスンを除く6人の各ヒロインにも、サムスンのようなビジュアル面から感じさせるインプレッションは稀薄だ。
サムスン(初見)さて、そのように抽象漠然とした物言いで納得できようはずもないという面々もおられようから、ならばサムスン以外のヒロインに共通し、彼女にはないところを述べてみよう。
それは、改めて云うまでもない初見の様子にある。サムスンは憂鬱げなビジュアルであるのに対し、他のヒロインは普通。憂鬱な表情が華と云えば語弊があるのだが、何か悩みを抱えているな? という意味において、サムスンは極めて主人公に近い存在であると云えるのである。

心の束縛に藻掻く泥沼の年上

芹澤祐輔には年上が相応である、というシミリがあるが、物語序盤に登場した塾講師エルメスはその任に適わない。しかし、「それでも僕は君が好き」に登場する数少ない年上圏で、必然的にサムスンが芹澤の真意に当たると断定するのも強引だろう。
本編プロローグからレトロスペクティブな本編入りを考えてみれば、芹澤祐輔が社会人となった時点で時系列が整い、漸く物語が本流となった訳である。と、な ると同年代以下が芹澤にとって吉と成り難いという意味を考えた時、サムスンというキャラクタは物語上、終結させるのに極めて必然的な存在だったと云うこと が実証され、また出さなければならないキャラクタだった。
芹澤祐輔(サムスン編)サ ムスンは上司との不倫に悩んでいる、という設定をして登場したが、芹澤にそぐうキャラクタ設定としては、恋愛遍歴を重ねて尚、自らの生き方を固定し切れて いない彼とチューニングされる年上という意味において、不倫というごく一部の親しい知己以外には中々相談が出来ないような立ち位置としてのほうが都合が良 かったと云えよう。
不倫を扱う恋愛作品は、総じて道義的ハッピーエンドという展開は至難なのだが、サムスンは独身で妻帯者の会社社長とかくいう関係にあり、実り薄き関係に懊 悩とし、そんな中で芹澤の偶然なる間違い電話で出会う。アーバンチックな馴初めと鷹岑は云うが、間違い電話がこの芹澤物語の大トリを飾る端緒となるという のが、正にそういう意味であるのだ。田舎では中々、そんな出会いは無い。

一例を挙げよう。北崎拓氏の「クピドの悪戯-虹玉-」で、メインヒロイン・桐生麻美はまさにそうした上司との不倫関係に懊悩し、主人公・睦月智也へ帰趨す る遷移を描くのだが、そのロジックにあるのは心の本質的自由度である。主人公・睦月智也には桐生麻美に告げられない秘密を抱え、麻美は別の女性との恋愛に 躍起になる智也に触れてゆくうちに彼に惹かれ、内向的になってゆく。それでも、最後は心の本質的な自由に回帰し、結実するという流れだ。
「それでも僕は君が好き」は、サムスンが抱える不倫の経緯を語られることは少なく、芹澤が自身の前半生の中において、両親がそういう不倫が原因で離別して いるという苦い経験をあらかじめ組み込まれていたことから、サムスンとの結実と、クピドの主人公・ヒロイン両者の結実とは、物語の流れそのものは違う。し かし、心の束縛というものに藻掻き続けているという意味においては、どんな作品であれ不倫行為そのものに付きまとう運命であると云えよう。

結婚を意識した恋愛

将来の先(サムスン)不 倫という題材を用いた恋愛テーマは、展開終結の方向性にもよるが、第一義は「結婚」と言うことになる。理由はそもそも「不倫」そのものが難易度の高い恋愛 であり、道徳的には不義という事になるわけだから、不倫を働いたキャラクタが、今更十代や昭和・九十年代のような純愛もへったくれもあったものではない。 そうなると、不倫の先にあるのは略奪婚。と言う言葉もあるように、結局はNTR(寝取られ)的結婚と云うことになるのである。
また、恋愛物語の流れとしても、結婚を意識しないキャラクタと、意識するキャラクタとでは、どちらに比重を置くかによってその作品全体の軽重が分かれる事になるのは当たり前の話であろう。

先例を挙げたクピドの場合は、メインヒロインの桐生麻美が結婚を強く意識し、将来ビジョンを描きながら主人公を絆して結ばれたのだが、「それでも僕は君が 好き」では、モノローグとして芹澤が唯一、そうした思考を抱いた相手としてサムスンを挙げていたように、サムスンもまた、芹澤との将来を真剣に考えていた と云うことは、物語を読み進めてゆけばよく分かる。
各オムニバスでも、エルメスはそうした意識には希薄で、サムスンの後にオムニバスのヒロインを担った奈々姫はどうもそれが通過儀礼的な意味合を滲ませてお り、芹澤とサムスンが互いに想い感じていたであろう、腰を据えた青写真ではなく、極めて情緒的なものであったように思えるのである。

「それでも僕は君が好き」のような、年代型恋愛オムニバスは概ね、結婚志向が終結の最終形であって、サムスンに対する芹澤の確固たる将来像が、全体的にサ ムスン帰結への大勢を決したのは間違いが無いだろうし、またビジュアル的にも制作者側の思惑が旨く合致したのではないかと推量できるのである。

幻のキム・サムスン編第3回

幻のキム・サムスン編第3回単行本派からみれば、相当月刊誌本編から端折られた部分が多いとされる「それでも僕は君が好き」だが、原作者関係との構成の都合がなければわざわざ一話分を丸ごとカットする必要は無いと考えるのだが、折角だからカットされた単行本派にとって“幻”の第3話を推察する。

さて、水族館デートから、サムスンが不倫相手の社長・作本との温泉旅行までが月刊誌本編にて掲載され、単行本では端折られた。非常に謎ではある。確かに、 単行本では、芹澤が水族館行きを切望していたが、いつの間にかサムスンが旅館行きと話をすり替えた。大幅脚色の割には繋ぎ目がはっきりとしている。
まあ、繰り返し咀嚼してみれば、カットもやむを得まいと思える部分もある。強いて挙げるならば、芹澤とサムスンの急接近の場面。結局、その後の温泉旅行で 二人はそういう関係になるのだから、ここで酔余の場面で急接近という形になれば、やや諄くもあり、サムスン自身が軽い女性だという心証の方が目立つ可能性 がある。水族館の場面もまた、改めて芹澤の人となりを語る上でもあまり重要ではなく、サムスンへの収斂の端緒となる、やはり温泉旅行以後の二人の成り行き を思えば諄くなると見えた。
しかし、折角良い場面を描いたと云うことに違いが無いので、単行本で省略してしまったのは至極残念な点である。もしも、全7集と言うことを予め想定しての単純カットだとしたならば、編集サイドの無能ぶりが単に示されたと云うことである。
省略されたこの第3話でのサムスンは、芹澤に対して姉のような大人の装いを見せながらも、後半、自宅の前で芹澤に甘え凭れ誘惑するなど、非常に男性読者の 気を強く惹き付けた。逆に、この場面がサムスン編以外のオムニバスの方程式に嵌まり、進行上サムスンとの一時的破局が、恒久的なものとなる「伏線」になる ことを恐れたのかも知れないという見方はどうだろうか。つまり、あまりにも『理想型にはまった年上の女性』という描写が、全体を俯瞰した上で他のオムニバ スと同化してしまうと云うことなのである。それでは、非ビッチのエルメス程度にしか見られなくなる。芹澤にとって、捨身飼虎たる甘え上手では逆効果だと云 うことなのかも知れない。そして、不倫相手・作本を目にした時の彼女の狼狽ぶりも、そういう型にはまっている。怯えるサムスン
芹澤の背伸びしたデートの誘いを泰然を装い受けておき、彼の言葉や虚栄を柔らかく受け流し、ほろ酔いで彼を見つめる淋しげな瞳と誘惑。そして最後の作本に 対する怯えと後悔。実はこの第3話で、サムスンはそうしたアーバンチックな部分とチャイルディッシュな部分の混淆という幅と奥行きが描き出され、人物像が 完成してしまっていた。
そうなると、その後の芹澤との描写が非常に蛇足に映ってしまう危険性があったのである。

たどり着く場所~泣いているその先の未来~

芹澤と同棲を始めたサムスンが、中々就職の決まらない芹澤を支え続け、漸く就職が決まる直前に突然去って行く場面は痛切極まりない。おそらく、その他のオムニバスヒロインたちと比較しても、読者側としてのショックは大きいものがあっただろう。
芹澤もサムスンも互いに背伸びをした思考の中で見ているものも同じという、非常に親和性のある二人だった事を考えると、劇中で実際に二人が恋人として交際していた、サムスン編終盤そのものが、芹澤祐輔恋愛遍歴の集大成であった、と改めて語れる。泣き顔のサムスン
さてサムスンも果たしてどうだったのか、本心を量れば彼女もまた、芹澤こそが恋愛的な終の栖と定めていたのではあるまいか。
彼女の前半生、背伸びし続けてきた生き方が描かれ、芹澤との破局を結ぶストーリーが描かれたが、やはり彼女は芹澤がモノローグしている通り、女性の芹澤自 身であって、芹澤の未就職に悲観したわけでも、もちろん彼を嫌いになった訳ではなく、やはり自分自身に対する青写真に一瞬の迷いを感じたからだと考える。 連絡先も告げずに離別を決め、同棲を解消させたサムスンの一瞬の迷いは、芹澤を再び混迷の輪廻に落とすことになるのだが、その後の芹澤は身を焦がすほどの 懊悩に苛まれることはなくなる。
件の通り、彼の心裡にはサムスンが在り続けたからであるのだが、その芹澤と別離したサムスンも元彼(作本か)との復縁を断った、とされたが、それがこの作品で唯一と云っても良いほど、主人公側にとっての光明であることは間違いがなかった。

先述した例で、クピドの考察につき「心の本質的自由」というものに触れたが、サムスンも御多分に洩れず、芹澤にだけ心の本質的自由を感じることが出来たのだと、鷹岑は考える。
サムスンは、本編で短い期間芹澤との同居生活を過ごしたのだが、彼女には不倫という打ち消せない事実があり、それが心の束縛となっていた。芹澤もまた、野 ブタから始まる恋愛的な心の束縛に苛まれてきた訳であって、心の本質的自由を感じられる、言葉を悪くすれば「心の底辺」に、物語は収斂する。背伸びをし続 けてきた二人が、力を抜き、ゆっくりとした心境になった時にたどり着く場所がお互いなのである。奇しくも、割愛された幻の第3話で、サムスンの台詞として 「そういう時は、結果に対してゆるく構えて目の前のこと、じっくりやるといいよ」という言葉が語っている。その通りなのである。
芹澤は、「泣いているサムスンが好きだ」として、その理由を「男らしく振る舞えたからだ」と述懐しているが、サムスンから云わせると、「芹澤の前だから素直に泣くことが出来た」と云うことだろう。歌手の武田鉄矢は 涙を海の名残というフレーズを多くするが、文字通り、気持ちをゆるく広くしなければ人は泣かないものだ。余程悔しくさえなければ、心を許してさえいれば、 人は人前で泣くことが出来るものだろうと考える。ましてや、サムスンはアーバンチックで格好いい女性で在り続けてきたのだ。芹澤の前でだけ見せる涙だとす るならば、千金の価値があり、芹澤自身もそれを忘れることが出来ないと言うのならば納得できるのだと云える。

芹澤祐輔、最後の終着点

安アパート奈 々とナナ編は、芹澤祐輔の恋愛遍歴における事実上最後の経験であったが、本編中から鑑みるに、サムスンへの帰趨に向けての最後の折り返し地点的な装いが強 かった。社会人編としての、もう一つの枢要であった就職活動において発生したオムニバスではあったが、この破綻によって結局はサムスン編終盤の状況に芹澤 は回帰する。そして、インターンシップでの法律事務所に拾われるところで、事実上彼の人生における就職の関門はクリアされた。それはある意味、人は帰る場 所に帰るもの、落ち着くべきところに落ち着く。と言った意味合いを成しているとも云え、エピローグで見せた彼の夢は、それまでの波瀾どん底の恋愛遍歴や背 伸びし続けてきたキャリアへの羨望とはかけ離れた、洗濯物が風にたなびく安いぼろアパートで、本当に想う女性の膝枕で安眠する自身の姿だったというのが実 に印象深い。

サムスンとの突然の別離から数ヶ月から一年余としても、縁は異なもの味なものとはよくぞ云うものだが、その理由が未だ判らず、もやもやとした喉に閊えた魚 の小骨の如き思いが引き寄せたのだろう。理由は判らないのも当然と云えば当然だろう。互いを嫌いになった訳では無い。好きだからこそ別れるなどという何処 かの大人の恋愛ドラマのようでもない。二人似ているからこそ、思いを一つにしていたと考えたいものである。
芹澤が夢を切っ掛けにサムスンへの想いを溢れさせ、都会に降りしきる雪の中を疾駆する場面はこの作品最後の見せ場ではあったが、もしもそうしなかった場合、果たしてサムスンから芹澤に対してコンタクトはあっただろうかと、男性読者の端くれとしては考えてしまう。

答えはおそらく「ノー」だっただろう。サムスンは芹澤を待っていた、などという都合の良い解釈という意味ではなく、真の意味で芹澤の幸福を考えていたはず である。あの別れ際に「……きっと沢山」と云った言葉は本心本音だったはずだ。故に、突然とも云える芹澤からの「きっと逢いに行く」というメッセージは僥 倖の思いだったに違いなく、それを聞くサムスン自身の瞳に、あの素直な涙となって浮かんできたのだと云えるのだ。