タブーをコミカルに、そして何よりもシリアスに描く鬼才の最新作

僕たちは繁殖をやめた 第1巻

第1巻/さおとめ やぎ

アトモスフィア・イメージソング / 哀しみの向こう側(DEEN・2001) 作詞:池森秀一 作曲:山根公路
◆真正禁忌(タブー)に踏み込んだ有史来屈指の問題作。〝あいだにはたち〟で心を(えぐ)る鬼才、大いに飛躍する

WEB検索でこの記事に辿りつかれた諸卿は、本邦の記紀伝承に記す衣通姫伝説をご存じだろうか。木梨軽・軽大娘という男女。そして後代に下り文春砲宜しく、葛城皇子すなわち後の天智帝と間人皇女。何故、この二組の男女を挙げたかは想像に任せよう。
ヒトというよりも広義の動物全体として、本能的にそれを回避し、枝葉を広げるように系図を広く伝えていった。記紀伝承から本邦の帝室の系譜を繙けば、近親婚は枚挙に遑がない。しかしながら、それは叔父叔母甥姪、一番近くても異父母兄妹等に限る関係だ。中世に至り倫理観が確かなものになると、それもなくなって行く。令和の御世で一番良くてもイトコ同士が法律で認められた正式な婚姻関係である。大迫瞳

本邦の帝室でさえ記紀時代や平安朝以前は割とザックリとした倫理観で男女の交わりは奔放だったのだから、血塗ろの王朝交代、帝室鏖殺の歴史を紡いできた大陸中華や西洋等々では本邦の歴史など鼻で笑ってしまうだろう記述がわんさかとある筈だ。と思ってしまうかも知れないが、これがまた意外であり、ここに記述する同父母の兄妹同士による近親間恋愛はさすがの大陸史でもどうやら禁忌のようではある。それをやってしまえば、暴君・暗君扱い。歴史に恥と汚名を永劫に伝えても構わないと豪語するほど盲目捨身的な恋に身を劫火に焼き尽くす位の大恋愛ならばともかく、大方はとち狂った莫迦王の成せる凶行として片付られるからまぁ、あり得ないという。

ヒトは理性があって善悪を自分で判断できる生き物なので、それを破ろうと思えば不可能ではない。本能がそれを留めているのであり、要するに大喧嘩をして「コイツぶっ殺してえ!」と思っても、実際に凶器を取り出して殺害したり、いい女を街中で見かけてムラッときても襲ってしまうような事は真面な人間ならばすることはない。同父母兄妹間の恋愛なんてものは成年向漫画や小説に特化した題材であって、社会通念としては全くのナンセンスに他ならないのである。
そう言った成年向の題材を18禁或いは20禁といった規制を撤廃し子供でも読めるマガジンポケットで描こうというのだから、そりゃあ成年誌よりも百倍はハードルが高くなる。下手すりゃコンプライアンスがどーのだの、性差別がどーのだのと言ったクレイマー連中の格好の標的にされかねない。それが今のご時世なのである。コロナ禍で自主逼塞を余儀なくされている中でフィクションの世界くらい自由に闊歩させてくれや。と、私は声高に言いたいくらいだが、この「僕たちは繁殖をやめた」の作者・さおとめやぎ氏は古今未曾有の鬼才というに相応しい作品を立て続けに出してきた。

あいだにはたち。年の差恋愛から踏み込めなかった真正禁忌へ

さおとめ氏の前作は〝あいだにはたち〟簡単に言えば、タイトルの通り主人公とヒロインが20才差の母子のようなもので、偽りと倫理観の狭間で紆余曲折し終極へと向かう作品なのだが、新作を考えれば、年齢差20才というのは実に生温い。本邦、大陸問わず歴史上を見ても、元ヤクルトスワローズの主砲・ペタジーニなど現代を見ても、年の差恋愛どころか、ジェンダーフリーが叫ばれている昨今を鑑みれば、良い意味で実につまらない作品だった。
それでも、ヒロインがアラフォーという設定で、吉瀬や井川、高岡、檀よろしく美魔女設定なのだ。メインヒロインがアラフォーで、かつ美魔女もしくは立ち枯れた容姿でなかったら、先日話題となったセレブアラフォー女社長と、男子高校生の叶わなかった悲恋よろしく何歳でもイケるんですよ。そこんところ、やっぱり人間は見た目なのよね(呆)

20歳程度の年齢差などグローバルスタンダードな今日日、禁忌に果敢に挑戦する鬼才さおとめ氏は、「繁殖」という植物や動物に用いる熟語をタイトルに据えた新作を発表する。メインヒロインは超絶美女の黒髪ロング・大迫瞳。主人公は見た目冴えなくも大ヒット小説家・百足孝太郎の一子・心(しん)。前にコラムで書いた稲妻桂氏の読切「あすか」よろしく、主人公・百足心も映画制作に青春の日々を捧げ、路頭偶然にすれ違った大迫瞳をロックオンする。
勿論、二人はその瞬間まで一面識も、漏れ伝う話一つも聞いたことがない、ガチの初対面だったのである。ここで諸卿に問いたい。リアルで物心ついた頃から家族として育てられた兄弟姉妹を異性としてみられるか? 見られるという人はまずいないだろう。百足心×大迫瞳

しかし、今、貴方が想いを寄せる異性。もしくは現実に付き合っている異性がある日、片親から「あいつは血の繋がった実のキョウダイだ」と言われてみたらどう思うか。ガチで考えてみれば良い。自分に似ている、似ていないという憶測や色眼鏡を抜きにして、「自分の恋人は世界で一番」と思っている相手が実は自分と父母を同じくする最近親。
多分、というか殆ど想像がつかないだろうと思う。それくらい、この作品は踏み込んでいる。軽々しい禁忌(タブー)ではない、記紀伝承・神話ですら凶悪行為とされてきた、同父母兄妹の恋愛。それもガチで肉体関係まで描くというのだから、永く成年誌でエロネタとして描いてきた成年漫画家は一体何をしてきたのだろうとすら思うほどの歴史的テーマを、さおとめ氏は小学生も読むであろう少年誌(WEB版)で描いているのである。

百足心と大迫瞳はまだ、同父母兄妹とは知らない(第一巻時点)わけだが、其れ迄ただの一つも噂や風評もなく、一面識もなかった相手を見て『あれ? この人なんか私に似てね?』などと考える人が居るだろうか、という話なのですよ。育った環境を考えてみれば、多分分るはずがありませんよね。分ってしまったら再会番組を仕切っていた島田紳助も形無しになります。

言われなければ意識もしなかった倫理観

私は近親間恋愛は必ず悲劇をもたらす(ハッピーエンドにはならい)という概念を持っているので、この〝僕繁〟も必然的にバッドエンド(ダーク・エンド)になるのだろうと思っているわけだが、それでも読んでしまう、嵌まってしまうと言うのが人のサガというものなのであろう。禁忌なればこそそこに踏み込む背徳感。こんな絶世の美女が姉妹ならば、地獄に堕ちても構わない。人間としての情ならば別にそれでもいいだろう。血縁とは言え、一個の人間として考えれば、恋愛感情は自由なのだから。
しかし、この物語が言う悲劇とは何なのかという話だ。倫理観か、道徳か。法律的に罪を犯しているのか。その法律とはだれのための法律か。誰にも迷惑を掛けていないのに、なんの罪業か。という話になる。
生まれてからずっと同じ一家で育ってきた血縁家族ならばともかく、存在すら知らなかった姉妹だ。恋に落ちるな。というのは、前者に比較して数十倍にして無理だろう。
心×大迫瞳
おそらく誰も出来ないだろうが、この記事を御覧じているだろう貴卿が、今付き合っている人、今想いを寄せている人がキョウダイであると言われて直ちに「付き合うのは禁忌だ。血の繋がった(と言われたから)キョウダイが付き合うなんてあり得ない」と言えるか。それまで積み重ねて互いの好きな部分を蓄積してきた恋人を、貴方は実のキョウダイと言われて、意識混濁するのが普通だろう。赤の他人ならば、フラれて「二度と会わない」と捨て台詞宜しくスッパリと諦められるのに、そうはいかない。如何に突き放そうが追い詰めようが血の繋がりは変えることが出来ないのだ。
(濃く)血の繋がった親族との恋愛はそう言った意味で、実に惚れたフッたこれで終わり。という訳にはいかない。中中にして運命と生涯断ち切れぬ縁で結ばれているので恐ろしくもあり、またある意味美しくもある。落命確実な猛毒として知られるフグの肝臓などは実は美味しいと言われるように、得てして禁断・背徳に満ちたものというのは非常に魅惑的なものがあるものだ。知らずに触れれば人並の幸福を得られると思うのかも知れない。しかし、生きてゆくうちにいつかは判ることだ。そのときに心身に染みついた甘美なる毒を消す方法はない。

この作品を読むときに第一義に観念として置いておくことは、主人公とヒロインが同父母兄妹であると言うことを除外することが必須である。それがなければ激しい抵抗感があるかも知れないし、昨今のコンプライアンスやらフェミニスト達が大騒ぎするかも知れない。頭を真っ新にして、 冴えない大学生の主人公・百足心と、絶世の美女・大迫瞳の広大なラブロマンスと捉えてみれば、或いは新たな面白さを発見できるかも知れない。シリアスの中にもウザくない程度のコメディタッチな掛け合いもある。そうした、さおとめ氏の操舵手腕は底知れない。